淡中 圏の脳髄(永遠に工事中)

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Πάντα ῥεῖ

automatic小説宣言

自動小説宣言

我々人類は新しいステージに登ろうとしている。それは人類の人類の手による進化である。

今はじめて人類は、自分たちの進む道を自分たちで決めなくてはいけなくなった。これは人類が大人になったといってもいいかもしれない。

ここで我々がどうしてここまで来たのかを振り返ってみる必要がある。

科学とはどこから生まれたのか、それを見定める必要がある。

その中心問題は「面白い」という感情がどこから来たのか、だ。

科学は決して役に立つから追及されているわけではない。 どの仮説が一番もっともらしいかを合理的に追及しているわけですらない。 局所的な現象として、個々の科学者はどうも「面白そうなこと」を「より真実らしいこと」として認識している気配すらある。 では、人間が何を面白いと感じるかこそ、科学とは何か、という問いに対して重要な情報を提供するはずではなかろうか。

進化論的に考えれば、何かを面白いと感じることにはリスクがある。 食うや食わずやの群れの中で「空がなぜ青いか」という問いを面白いと感じる個体がいても迷惑なだけだ。

我々がこれほど面白さを感じるようになったのは、新しい環境に適応するための、幼児期の好奇心、適応に効果のあるそういうものに付随して産まれた副産物を考えるのが妥当だろうと思う。 このように「面白さ」を進化論的に跡付けるのも面白い仕事だ。

しかしそれ以上に「今現在我々が何をどう面白いと感じているのか」も重要だろう。 その先には「我々は何を面白いと感じるべきなのか」という問いも控えている。

芸術家はどうしても「革新的な面白さ」を「本当の面白さ」ととらえて、多くの人間が持っている「惰性の面白さ」と「偽の面白さ」と断じてしまう傾向がある。 しかしそれはあまりに一面的な見方であろうと思う。 どちらも「面白さ」なのだ。 しかしそのうえで我々が、どちらをより面白いととらえたほうが、将来有利なのか、という問いは問える。 いや、我々が自分で自分を改造できる存在になってしまった以上、問わなくてはいけない問いなのではないだろうか。

「面白がる」をどう理解すればいいのか。 「何か」を理解するための一つの手段が、「それ」を自動化してみようとして見ることだと思う。 自動化してみようとすることにより、最初は見えてこなかった細部に目が行き、理解が深まるのだ。 そのために、私は「面白い物を作る」ことを自動化してみようとすることの重要さを主張する。 目標を単に小説っぽいものを作ることより、もっと向こう側へ向けるべきだ。 ダダイストやバロウズがやったことは、詩っぽいものや小説っぽいものを作ることではなく、それを壊してでもその向こう側の、未知の領域に我々を連れて行こうとすることであったはずだ。

難しければ、半自動化でいい。 それらは多分詩や小説とはいいがたい外見を持って現れるかもしれない。 しかし、そこにこそ未来の可能性があると私は信じている。

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