淡中 圏の脳髄(永遠に工事中)

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We are such stuff as dreams are made on

web小説宣言

Web小説宣言

いつまで紙の上の小説と同じ書き方をしてるんだろうね。

紙とWebを始めとするディスプレイ上に表示する媒体は随分性質の違うものだ。ハイパーリンクなどに強く現れているけれど、それだけじゃない。

相手がどんな端末で見ているかわからないから、見た目をこちらで決めきることができないってのも大きい。 だからこそpdfとかで、わざわざ紙を再現してやらないといけないのだ。 今のところ、紙に紙性を壊さない程度の電子性を加えたものが電子書籍のゴールとなっているけれど、そのうちに電子書籍は紙の桎梏をするりと逃れてしまうだろう。 何の衒いもなく。ただそちらの方が面白そう、と気づく人が多くなってきただけで。つまり人間の自然な本能の赴くままに。

考えてみれば、声の文化から紙の文化、語りの文化から本の文化へと移行することにも、同じような抵抗があった。 その移行には何千年以上の歴史が必要だったのだ。

ソクラテスは文字による知識の伝達に警鐘を鳴らしていた。 実際彼は書いたものを残していない。 彼は知識の伝達とは、師匠と弟子との対話でなされるべきものと考えていたのだ。

その後も、紙の普及、印刷術の普及以前には、本がそもそも貴重なものであるし、それを読むことができる者も希少だった。 自然、本は個人で読むものではなく、読めるものが皆の前で朗読して、読み聞かせるものだと考えられていた。 本は声の記録メディアだった。

黙読は、識字率が高く、本が身近にあった修道院などにおいてのみ発生しうる習慣だったのだ。

それゆえ、書かれるものも、それらは声に出して読まれることを前提に書かれていることが多かった。 流麗な飾り文字や、植物や怪物で装飾された美しい写本の文化は、貴重である本を飾り、「物体としての本」の価値を高めたが、それが表現のレベルに影響することはあまりなかった。 それらはあくまで周辺的な現象だったのであり、だからこそバルトルシャイティスら周辺的な事物に注目する美術史家の好むところとなったのである。

物語の世界を考えてみると、紙に書かれた物語が「物体としての本」を意識し始めたのは、スウィフトやスターンなどの何人かの先触れを除けば、19世紀後半からであろう。 例えばディケンズは自分の作品の完成形は、自分がそれを朗読した状態であると考えていたようだ。 フローベールが風穴を開け、ジョイスが可能性を広げ、ベケットが発散させた。 それが20世紀文学の歴史の背骨となった。

映画という映像化の技術の発展とともに、「本としての本」とは何かという自意識も先鋭化していった。 その帰結が、一つの都市を一冊の書物に閉じ込めようとした『ユリシーズ』であり、一つの世界=夢を一冊の書物=閉じた円環の中に閉じ込めようとした『フィネガンズ・ウェイク』だ。

これは本というものが、「綴じた = 閉じた」存在であることからの帰結だ。 声による語りが「開かれた」存在であることとの対照が表されている。 例えば「推理小説」という形式もこの書物の「閉じている」性質を作者と読者が自家薬籠中のものとしていなければ成立できない、ともいえる。 いつ終わるとも知らないし、語るたびに内容の変わる語り物の中に、フェア精神と高度な伏線の織りなすパズル的物語は発生しえない。 もちろん閉じた書物の中で一度発生した推理小説を語り物の中に移植することは可能だ。 録音や撮影によって、「開かれたもの」であった語りを「閉じたもの」にすることも可能だ。 その中で、一度きりの「開かれたもの」としての価値の価値も見直されてきたのだ。

同じように、web上に実体が散らばり、不断に姿を変えていくことが可能な「閉じつつ開く」微妙な存在であるweb上の小説も独自の価値を持っている。 ならば、それをもっと活かそうじゃないか。

小さなことから始めたらいい。 例えば私は紙の上で発表するつもりの小説と、web上で発表するつもりの小説では書き方を変えている。 簡単なことだ。 web上で発表する小説は、難しい言葉などでも簡単に検索できることはいちいち説明しない。 web上で文章を読むときに、知らない言葉に出会ったときは、反転して右クリックでweb検索する癖がついているべきだと考えているからだ。

馬鹿にする人もいた「夢小説」だって考えてみれば、いろいろと夢が広がる。 ジョイスだったらどんな夢小説を書くか考えてみると言い。

twitterのあの無限スクロール(一番下までスクロールするとさらにコンテンツが伸長する)を見て「これで小説書けないか?」と思ってほしい。 例えば推理小説(本を手に取ったとき、それが有限に終わっている、ということが本質的に重要なジャンル)において、 最後まで読んだと思ったら、さらに文章が伸びたら読者はどんな顔をするだろうか。 それころが、web小説の「閉じつつ開いている」ことの本質なのだ。

閉じたものとしての書物の独自性があらわになったとき、開いたものとしての語りの重要性もより深く明らかになった。 同様にweb小説の独自性が、紙の本の良さを照射してくれるはずだ。

紙の上の小説とweb上の小説の違いは、音楽におけるライブ盤とスタジオ収録盤の違いとでも考えておけばいい。 スタジオ収録版は演奏不可能なレベルの複雑なことができるが、ライブ盤の臨場感も捨てがたい。

そう考えてみるとライブ盤を録音したものにも独特の良さがある。紙の上の小説をweb上で読んでも何の問題もないのだ。

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