淡中 圏の脳髄(永遠に工事中)

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宇宙定数と少女の体臭

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宇宙定数と少女の体臭

 宇宙が少しずつ、だが確実に膨張をし続けていることに人類が気が付いたその日、人類の世界に対する認識は多くの点で大きく変わったが、その一つが、一人の少女が宇宙の膨張の原因は自分の体臭だと思い始めたことだった。

 それが科学的に正確なのかどうかは専門家ではない私には判断できない。だからここでは私に分かる範囲のことだけを、できるだけ正確に書いていきたいと思う。

 その日から彼女の人生は、なんとかして宇宙の膨張を止めようとする、悲痛な努力に費やされた。暇さえあれば、熱いシャワーを浴びて、体表面の雑菌ごとあぶらを洗い流そうとした。しかし、そんなことでは天体の赤方偏移は止まらなかった。自分の出す悪臭が、世界中のすべてを遠ざけて、それでみんなが離ればなれになっていく。そのことに耐えられなくて、彼女はますますスポンジで乱暴に体を擦るのを止められなくなる。

 彼女は次第に部屋に閉じこもるようになり、両親とすら顔を合わせられなくなる。すでに食事も喉を通らなくなり、骨と皮だけになってしまった少女は、スポンジがぼろぼろになってしまうころには、その皮さえ透きとおりはじめ、まるでボイオティアの山猫がそうするように、内臓が直に外から見えてしまうようになってしまった。彼女は鏡に映った自分のあさましい姿を見て、ますます絶望してしまう。皮の下に、こんな汚いものを一杯に詰め込んでいたのなら、臭くても仕方なく思えたのだ。思わず吐き気を覚えたが、すでに胃液すら枯れ果てて、萎びた内臓が痙攣するばかりだった。

 このままでは、何も解決しない、と彼女もようやく気付いた。このままこんなことを続けても、死んでしまうだけ。そしたら、ひと際異様な死臭を放つ死体の出来上がり。生きとし生ける物だけでなく、無生物までもがあたしの周囲から逃げようとし、あたしのまわりにでっかいクレーターが出来るだろう。そこにあたしが落ちると、落ちたところにまた穴が出来るから、地球の中心まで落ち続けることになってしまう。そうしたら中国まで落ちて行ってしまうかも。部屋の片隅で、骸骨の顔の中で目玉だけをぎょろつかせながら、彼女は自嘲的に笑うのだった。

 彼女が笑ったのは、どれだけぶりだったであろうか? 自分がまだ笑えることに、彼女が一番驚くくらい、それは久しぶりな笑いだった。久しぶりに笑ったのは、気持ちが良かった。何だか、ものすごくいい考えが浮かんできて、何もかも解決しそうな気分だった。彼女は自分の存在を無視し続けることをやめ、自分の内部に耳を澄ました。すべての感覚を研ぎ澄まそうとした。

 もう臭いなんか分からなくなっていた。とうの昔に鼻が腐り落ちてしまったからだ。自分の体臭のせいと彼女は言ったが、もしかしたら、彼女なりの冗談なのかも知れない。彼女は普段は割合、冗談なんかを言える女の子だったのだ。その鼻のない彼女でも、部屋の空気が悪くなっているのは感じた。当たり前だろう。ずっと換気なんかしてなかったのだ。

 立てるかな。

 彼女は立った。一体どれだけの間、部屋の隅にうずくまり続けたか、彼女には分からなくなっていた。

 歩けるかな。

 彼女は歩いた。歩くたびに体の様々な部分がぼろぼろと崩れ落ちていったが、それでも這いずるように前に進み続けた。こんなに窓まで遠かったっけ、もしかしてこれも宇宙の膨張のせい? と彼女は思ったが、もしかしたら、これも彼女一流のジョークなのかもしれない。

 彼女は窓から外を見た。夜だからか、それともすべて遠ざかってしまったからなのか、何も見えなかった。だが、かまわず彼女は、残り少ない渾身の力を絞って窓を開け放った。

 夜の風がカーテンをひらめかせながら部屋の中に渦巻いて、彼女の体は塵となり、目に見えない粒子となって、舞い飛び、再び窓から世界に飛び立った。

 彼女は考えたのだ。宇宙の膨張を止められないのなら、いっそ逆の発想をしてみよう。アメリカの反対側は中国で、アメリカから地面を掘りはじめたら中国に出る。だったら、みんながいっせいにアメリカの一点から逃げだせば、中国でみんな出会うはず。きっと宇宙もそうなっているんだ。世界のすべてがあたしから逃げだせば、いつか世界の反対側でみんな一緒になれるはず。だったら、ひとりぼっちになるのはあたし一人ですむ。あたし一人がそれを我慢すれば、世界中のみんながそこで、ここから無限に離れた場所でパーティを開ける。

 少女は数学が好きだった。臭いがないから好きだった。今少女は、前に本で読んだ「無限遠点」の話を思い出していた。だだっ広い世界に無限に遠い一点を加えることができる。そこは全ての平行線が交わる場所なのだ。想像してみてごらん。そこではすべての平行線をたどる口喧嘩が、例えばキノコタケノコ論争だろうが、全部収束しているのだ。

 あたしは今からみんなをそこに連れていく。そのためには、どれだけ嫌われてもいい、誰からも愛されなくてもいい。もっと醜くなれあたしの体。もっと臭くなれあたしの体。

 彼女の体は、微塵に砕け、素粒子よりも、クォークやレプトンよりも細かくなり、真空としか呼びようのないものになる。彼女は真空のエネルギーになったのだ。宇宙の膨張を加速するダークエネルギー、アインシュタインが後悔した宇宙定数に。

 大丈夫。たとえアインシュタインが後悔したって、僕は君を受け入れる。窓を開けておくと初夏の風がカーテンを揺らし、少女のかけらが部屋を満たす。街の惨めな星空を見上げると、今日もすべては世界の果てへ向けて、信じられないほどのスピードで遠ざかり、その下で人びとは相変わらずくっついたり離れたりに忙しい。そういうこと全体を気にしているような気にしていないような振りしながら、僕は益体もない想像を終えるために、エンターキーを指先で弾いた。

解説

巨視的な話と微視的な話を絡めたかったのかなあ(なぜ書いたか思い出せない)。

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