淡中 圏の脳髄(永遠に工事中)

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If you have the right attitude, interesting problems will find you

自分が汚したわけでもない部屋を掃除するのは正直ごめんです

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自分が汚したわけでもない部屋を掃除するのは正直ごめんです

 まもなく冬になろうかというときだった。

 夏休みがあけたころからだんだん見かけなくなっていた岡田が、講義に来なくなってから一ヶ月以上が過ぎ、そのうち誰かが心配するだろうと思って別に心配していなかったのだが、なかなか誰も心配しようとしなかったのでさすがに心配になって、「最近見かけたか?」と何人かの共通の知り合いに聞いたら、「いつから見ていないか覚えていない」とか「ブログの更新が止まってるから、死んでるんじゃない?」とか「誰それ?」とかいう冷たい反応しか返ってこない。仕方がないので下宿まで来てみたら、錠が閉まっていてドアを叩いても何の気配もしない。ポストは郵便物でパンパンになっていて、もし新聞を取っていたら破裂して中身を辺りにぶちまけているところだ。いないのかな、と思って帰ろうとしたときにそれに気づいた。異臭だ。何の臭いであるかはよくわからない。すえたような、なにかが腐ったような臭い。ドアに顔を寄せると、それはまさにこの室内から漂ってくるようだ。

 5秒ほど、これが意味していることについて考える。

 「まずいな」

 口に出して言ってみた。ある種の自己確認だ。

 「実にまずい」

 今考えたことが大筋で正しければ、この向こう側にはあまり見栄えがいいとは思えないものがあるのだろう。しかし放っておくわけにもいくまい。とりあえず大家を呼んでこよう。

 少しぼやかしておいた話を聞いた初老の大家は、明らかに面倒くさそうに、おそらくは「トラブルはごめんだ」という風に翻訳できそうな聞き取れない愚痴をこぼしながら、鍵束を持ってきた。老眼鏡の度があわないのか、眉間に深く深くしわを寄せ、時間をかけてそのの中から一つを選びだす。それを鍵穴に差し込んでひねると、ガチンと内部機構が作動する音がする。その作動音から、どのくらいこのドアが開かれていないかを推量できないかと思ったのだが、よくわからない。よく考えたらこのドアは、はじめて見たときからガタが来ていた。ドアノブを回して引くと、城達也のナレーションが聞こえてきそうな軋みを立てる。さあ、鬼が出るか蛇が出るか。

 「おわっぷ」

 大家が急いで、鼻を押さえた。横から恐る恐る首を突っ込もうとしていた私も、同様のダメージを食らう。鼻だけでなく目にもくる臭いだ。くさいというより痛いといったほうが適切なくらいだ。涙ぐんだ目を無理やりこじ開け、指の間から部屋を見る。カーテンがしまっていて、中が暗い。これでは何も見えない。

 「うひゃあ、何なんですかこの臭いは」

 大家がやはり涙目になりながら、問いかけてくる。

 「いや、僕に聞かれましても」

 「これはひどい、ちゃんと掃除してくださいよ」

 「えぇ? 僕がですか?」

 「別に誰がやってもいいんですけど、あなた岡田さんの知り合いなんでしょ」

 「ええ、まあ、いや、実は今日始めて知り合った仲で、本当はぜんぜん知らない人でして」

 「岡田さんが行方不明ってことなら、誰かが変わりにやってください。あと家賃も」

 「えぇっ?」

 戦々恐々、部屋の中に足を踏み入れる。もわっと、埃が舞い上がり、鼻どころか口で息することすらままならない。

 薄暗さに目が慣れてきて、ものが見分けられるようになってくる。それに前に数回来たことがあるのだ。玄関を上がると(歩くたびにもうもうとまるで茸の胞子のように埃が立ち、しかもなんだか小さい虫が足元でかさこそ何匹も這い回るので、土足のまま上がらせてもらった)すぐ水周りで、右側に狭そうな風呂場、左側に細長い調理場で、この悪臭の原因のひとつは、ここの流しに溜まりに溜まって長い間放置された、食器と調理具と食べ残しの集積体だろう。その周囲を人の皮膚を食い破り卵を産み付けることぐらいお茶の子さいさいだぜという感じの蝿がぶんぶん飛び交っていて、まるで靄がかかっているようだ。

 「また一つ、村が腐海に沈んだ」

 何もかもにどっさりと埃が積もり、そしてなんだかべたついている。壁や物に触ると糸を引きそうな感じだ。何かを踏んづけて。ずるりと滑りそうになる。しりもちを付きそうになるのを危ういところで床に手をついてこらえると、手のひらと床の間に何かにゅるりとしたものが挟まり、グチュリとつぶれた。

 「ひぎゃあ!」

 慌てて手を離した拍子に今度は前につんのめりそうになるが、なんとかこらえる。手のひらは何かでぬるぬるになっている。いったい何をつぶしたのか見ようとするが、暗くて確認できない。ティッシュを何枚か出して丁寧に手についてぬるぬるをふき取り、ゴミ箱を探すのだが、あきらめて適当に投げ捨てる。次に何を踏んだのかを見ようとすると、ページの反り返ったノートが床に落ちていた。拾い上げると言わずと知れた、ワタシ酋長、コレジャポニカ学習帳、の漢字練習帳である。何でこんなものが調理場に? と思って、湿ってぶすぶすになった紙をめくり、入り口からの光でどうにかこうにか読むと、罫線を無視してなにやら日記のようなことが書いてある。大雑把にぺらぺらページをめくっていくと、大概は世の中に対する恨みつらみ、簡単に言うと「女はこんなにいるのにどうして自分はもてないんだ」ということについて書いてあるようだ。あるページではそういうお店に行くかどうかで、いじいじと迷っている。お金がどうとか、悪い病気がどうとか、心が通わない商売に自分の心が納得できるのかとか、ただ単に勇気がないだけの話を、いろいろな理由をつけて誤魔化している。哀れだなぁ、浅ましいなぁ。読んでいられなくなってページをめくると、突然小さい文字で、2ページに渡って「sexしたいsexしたいsexしたい……」と書き連ねてあり、さらにそのページをめくると、でかでかと乱暴な文字で「オレは生まれ変わるんだ」と書きなぐってある。

 「まずい、実にまずいよ、これは」

 しゃがんでノートと顔をつき合わせていると、頭上でパチッという音がして、何回かの点滅の後、灯りがつく。ああそうか、すっかり廃墟のつもりでいたけど、電気通っているんだっけ。顔を上げると、居間兼寝室兼勉強部屋の入り口に、大屋が逆光で背中をこちらに向けて立ち尽くしている。

 「なんじゃこりゃあ」

 ああ、やっぱりありましたか、この有様を見たら、大屋さんだって、予想できそうなものですが、やっぱり実際に実物を見てしまうと、やっぱりショックなのでしょうね、しかし、バリバリのSFファンの岡田君がまさか生まれ変わりを信じて自殺するなんて、いったい誰が予想できたでしょうか、しかし暑い盛りじゃなくてよかったですね、夏場だったらこんなもんで済まされるわけはなく、その惨状はそれこそ予想の範囲を越えているであろうことは……

 そんなようなことを考えながら、大屋の肩口から中を覗くと、そこにはまさに予想の範囲を超えてしまったものが部屋の真ん中に鎮座ましましていた。

 「ワオ」

 思わずよくわからない反応をしてしまう。

 四方の壁から真っ白な糸の束のような物が、まるで蚊帳を吊るように張り渡されて、部屋の真ん中、カビだらけになった岡田の万年床の真上に宙吊りになっている、人間が二人分ぐらい入れそうな巨大な繭を支えている。私はてっきりその万年床にミイラ化した岡田が横たわっているか、もしくは天井から岡田の巨大な体がぶら下がっているかどちらかだと思っていたので、この展開には驚いた。よく考えたら、体内に大量の水分を蓄えていた岡田(二リットル入りペットボトルを手放さなかった)がどうやってミイラ化するのか、そもそも長いミイラ史上でデブのミイラは存在するのか、等の疑問も沸いてくるし、首を吊るにしろ岡田の体を支える紐が果たして存在するのか、よしんば衛星エレベーター用の炭素繊維で紐を作ったにしても、岡田の体重を支える天井が存在するのかという問題もあり、そう考えるとこれでよかったのかしら、とも思えてくるのであった。

 よくないよくない! まあ、それくらい気が動転していた、という風に読み取っていただきたい。

 「ああ、ああ、ひどいなぁほんとに、こんな物部屋に持ち込んで」

 いったいこれを何だと考えているのか、大家はハンカチで鼻と口を押さえながら、その部屋に踏み込んだ。私も後についていく。腐臭でもない正体不明の臭いが強くなる。蛍光灯の明るい光の下で見ると、壁や、隅っこに積み上げられた雑誌や、無造作に山になっている衣服などに、びっしりとカビが生えているのがわかる。普通カビというやつは平面的に生える物だが、ここでのカビは、二十世紀の絵画がカンヴァスから飛び出していったように、すでに三次元のマッスを手に入れ始めている。床を見ると光に驚いたのか物音に驚いたのか、巨大なムカデたちが脱ぎ捨てられた服の下に逃げ込んでいくところだった。

 大家が恐る恐る繭に触る。触っては手を引っ込め、触っては手を引っ込め、まるで何か熱いものに触るようだが、何回か試してみて危険がないと判断したのかそれともそれほど熱くないと判断したのか手のひらでポンポンと叩いてみる。それを見て私も触ってみると、少しじっとりしているが、ベトついているわけではなく、少し暖かい。

 「いったい何なんだねこれは?」

 「いや、それこそ僕に聞かれましても」

 まったく見当がつかない。大家はさっき持ち込んだといったが、こんな物どこから持ち込むというのだ。まず玄関を通りそうにない。縦は2メートル以上あるし、横幅も1メートル近くはありそうだ。だけど、岡田を入れようと思ったら、これくらいは必要かもしれないな……

 お互いに目を見合わせた。私は大家が何か音を立てたと思ったのだ。どうやら、大家もそう思っているようなのだ。ただし、そう思うというのは、大家が音を立てた、と思っているのではなく、自分ではなく相手が音を立てたと思っているという意味だが。

 「あの」「あのさ」

 お互いの言葉がぶつかり合う。そしてほぼ同時にそれに気づいたのだろう。見合していた視線を同時に自分たちの手のひらの下にあるものに注ぐ。

 動いている。そして、がさごそと中で何かが音を立てている。時々、ぬちゃっとでも表現するべきか、何か粘液質な音もする。

 そろりそろりとそれから手を離す。それから目を離さずに23歩後ずさる。

 べりべりべりと音がして、繭に亀裂が入り、何かがにゅっと中から突き出たと同時に、すさまじい叫び声が起こる。

 「おかあさああああん!」

 裂け目が走った瞬間に、大家が戸口に向かって走り出したのだ。

 「ちょ、ちょっと待って!」

 慌てて大家の後を追おうとするが、足がもつれて倒れそうになる。背後では宙吊りになった繭がユサユサと揺れている。体制を立て直して玄関に向かうと、そこではちょうど大家がドアを閉めようとしているところ。ガチャンと閉まったドアに体当たりを食らわすようにドアノブを掴むが、それと同時にドア一枚隔てた向こうで、ガチガチと鍵穴に鍵を差し込もうとする音が聞こえる。ノブを回そうとするのだが、向こうで押さえているのか回らない。鍵穴に鍵を差し込もうとしているのだったら、ノブを押さえているのは片手だ、だったらこっちは両手だと力を入れようとした矢先、無常にも錠がかかる音がした。両手で力いっぱい回そうとするが、機構に阻まれて最後まで回りきらない。ガチリ、ガチリ、と数回挑んでみて、無駄を悟ると、今度はドアを力いっぱい叩く。大家が立ち去った気配はまだない。

 「大屋さん、まだそこにいるんでしょ。そこにいるんだったら開けてください。お願いしますから開けてください。ねえ、聞いてるんでしょ。ねえ、後生ですから。今ならまだ間に合いますから、ねえ!」

 しかし、大家は突然

 「うわあっ、ママァーーーーーン!!」

 と叫んで、走っていってしまった。

 「ちょっと? 大屋さん? ねえっ? 大屋さん?」

 カンカンカンと階段を駆け下りる足音がした後、何も聞こえなくなってしまった。私はガンガンガンガンドアを力いっぱい殴る蹴る、そして叫ぶ。

 「おいこら! 大家! 卑怯者! 臆病者! うつけ者! たわけ者! マザコン! 馬鹿阿保間抜け! このくそったれやろおおう!!」

 すると、この部屋の隣で勢いよくドアが開く音がした。

 「うぅるっせぇんだよ、この馬鹿! ドアは内側から鍵が開くだろうが! くそ阿呆!」

 「あっ、ほんとだ」

 バタアン! とぼろアパート全体が揺れるような音を立てて、隣のドアが閉められた。ご機嫌斜めのお隣さん、感謝します。

 取っ手を捻って錠をはずし、ドアを開け放つと、そこには見慣れた十一月の昼下がりが広がっていた。嗚呼、神は天にいまし、世はすべてこともなし、だ。

 退路を確保するとなんだか勇気も湧いてきた。ドアを開けっ放しにしたまま、そうっと振り返る。一見何も起きていないように見える。さっきのあれは気のせいだったのか。いや、そんなことはない。こちらから見ると、あの裂け目が見えないだけだ。だが、とりあえずいまは変化が沈静化しているのは確かそうだ。痛いほどの心臓の鼓動が治まるのを待ってから、抜き足差し足忍び足、でいまひとたびのアプローチを試みる。できる限り体が近づかないように、前のめりになって首をにゅっと伸ばすように、繭にできた裂け目を覗き込もうとする。何も見えない。ただ、裂け目があるだけである。何も生えていない。そして中は真っ暗である。怪獣映画とかだと、原理はよくわからないのだが、大概こういうものは緑っぽく光ったりするものだ。どうやら今回の件には邪悪生命体ゴーデスは関わっていないらしい。もう少し口が開いていれば、中の様子が何とか見えそうな感じだ。指先で少しだけ裂け目を開こうとしてみる。その手首をぬるりとした手が掴んだ。

 「ぎゃあ!」

 私は手を引っ込めようとした。しかししっかり掴んだ手は離そうとしない。爪が食い込む。かなりの力で引っ張られ、繭の中に引きずり込まれそうになる。繭の中で何かが激しく動いている。裂け目の周りが内側からの圧力で膨らみ、中にいる何かが外に出ようとしているのがわかる。がりがり内側を引っかく音や、内壁に体当たりをして呻く音もする。裂け目の中に引っ張り込まれた指先に、何か別のひんやりしたものが触れる。

 「ははははははなせばわかる、はなせば!」

 だがどう考えてもはなしてわかる様な相手ではなさそうなので、遮二無二足を踏ん張り手を振りほどこうとすると、、繭がグワングワンと横揺れし、壁から吊り下がった糸の束がぶちぶち数本ちぎれ、裂け目がメリメリと音を立て広がり、その広がった口から、粘液に包まれた何かがでろりんと私の手を掴んだまま零れ落ちた。

 小さな体をした裸の少女だった。

 恐らく身長は160センチないであろう。全体的に栄養が足りていないのか少し痩せすぎで、わき腹に肋骨が浮き出ている。乳房は小振りで、手足も細く、ひょろ長い感じで、本当にさっき私を力いっぱい引っ張ったのはこの腕なのだろうか、と思わされる。髪の毛は肩くらいまであるらしいが、すべてべっとり頭や首筋やうなじに張り付いているので正確なことはわからない。下腹部のうっすらとした茂みも同様にべとべとだ。その裸体が目の前に、ネトネトのテラテラになって転がっていて、どうやら私は、状況を把握しきれていないようだ。息を切らしてただただ呆然と眺めていると、口や鼻の周りも粘液だか粘膜だかに覆われていることに気づいて、これじゃ呼吸できないんじゃないかと思って、あいている左手で(右手は相変わらず囚われの身のままだった)顔をぬぐってやると、顔の造作がよくわかるようになった。鼻は小さめで少し上を向いている。眉は細めで、目は大きそうだ。全体的には可愛いという感じだが、少し口が大きすぎるような気もする。よく喋るかよく笑うか、それともよく食べるのかもしれない。

 数秒観察していると、突然目を開いた。予想以上に大きな瞳のその不思議なきらめきに心を奪われる。少女はまずは天井を眺める。そしてその少し横に、驚いて声を失っている私の顔を発見し、そちらに視線を移した。そしてあいている左手で(右手は相変わらず私の右手を捕えたままだった)体を支え、上半身を起こして、私の顔を真正面から覗き込む。

 「あ、あの」

 舌が麻痺してうまく動かない。しどろもどろの私の言葉を聴いて、少女はニコッと少し微笑んだ。すると、口の端から尖った八重歯がキラッと光る。

 「そろそろ手、放してくれないかな」

 微笑んだまま、小首を傾ける。日本語が通じないのだろうか。

 「いや、だから、この手」

 左手で指差して、ジェスチャーで何とか通じさせようとする。通じたのかはよくわからないが、右手の拘束を解いてくれた。うへえ、なんて力だ。跡がついてしまった。もしあのまま掴まれたままだったら、血流がとまって確実に手首から先が壊死して腐り落ちていたことだろう。

 手首をさすりながら、またもあたふたしてしまう。とりあえず、意思の疎通は不可能ではなさそうだ。だったら次は何を話せばいいのだろう。私はどちらかというと、沈黙が苦手な男で、会話が途切れると何とか話題を見つけようとじたばたと見苦しいところを見せてしまうのだ。特に今は気まずい。この異様なシチュエーションを早く解決せねばとあせってしまう。

 (話題が途切れたときの対処法は、と。共通の話題、共通の話題。共通の話題なんてあるわけねえじゃんかよ)

 少女が相変わらず微笑みながら、いやな汗をかいている私を見つめ続けるのも、事態を悪くしている。こんなときは決まって馬鹿なことをいってしまうのだ。後々に遺恨を残してしまうような、恥さらしな一言を。

 頭蓋骨の裏側にまるで走馬灯のように、今日一日の出来事が映し出される。別に会話が続けられないから死ぬわけではない。なぜ、こんなことになってしまったかを分析することにより、これを打開する方法を探しているのだ。二倍速で今日の主要な事件を飛ばし見ているときに、あるものが目に映った。すばやくジョグダイヤルを逆に回して巻き戻し、それの直前でコマ落とし再生、ぴったしかんかんのところで一時停止する。岡田の日記だ。見開きででかでかと「オレは生まれ変わるんだ」と書いてある。思い当たることがあった。まさかとは思うのだが……

 「もしかしてさ、君……」

 少女は相変わらずぺたりとおばあちゃん座りで床に座って微笑みを絶やさない。

 「もしかして……岡田?」

 少しだけ眉根を寄せた表情で、少しだけ右肩に首を傾けた。

 

 

 そのまましばらくお互いその体制で、固まっていた。相変わらず相手はこちらを見つめているが、見詰め合ってても気まずいので視線を落とそうとすると、相手の下半身が見えてしまい、かといって上を見上げると大量の巨大な蜘蛛が巣を作って、そのうちの何匹かが降りてこようとしているのが見えて、見なければよかったと思う。そもそもこんなことになるんだったら、慣れない親切心など出して、こんなところ来るんじゃなかった。悪いのは岡田だ。しかし、当の岡田が目の前で細っこい、風が吹けば折れてしまいそうな女の子になっているのじゃ、誰に怒ればいいのかよくわからない。まだ、目の前にいるのが岡田の予想外に変わり果てた姿だと断定するには早いかも知れないが。

 しかし、いつまでもここで、しりもちをついた体制のまま、目のやり場に困っているわけにも行かない。もう一度、目の前の少女を見ると、両手で肩を抱いて、少し眉間に皺を作っている。そういや今は十一月、裸では寒いはな。このべたべたの粘液も最初は人肌ぐらいの生ぬるさだったが、あっという間に冷めてしまった。とりあえず服を着せないと。その前に、このグチュグチュを洗い落とさないと。

 意を決して立ち上がると、まだ少し膝が笑っているが、腰が抜けたわけではなさそうだ。とりあえず、まず何をするべきか、辺りを見回して考える。玄関の戸が開いていて、数人の人だかりができている。歩いていって、「すいません」と頭を下げてそれを閉める。外でブーイングの嵐が起こるのが聞こえてくるが、かまってられない。風呂場を覗くと、やはりカビだらけになっているが、水は使えるので、転がっていたたわしで、手早くカビの塊を洗い流そうとする。すると胞子の塊のようなものを噴きだし、危うく瘴気が肺の中に入りそうになるので、あわてて窓を開ける。そこから三人ほどの男が顔を覗かせる。怒ってたわしを振り回すと、こべりついた粘菌の破片がその一人の顔に命中して、ドップラー効果の悲鳴を上げながら下に落ちていく。そういやここは二階だった。残りのものもゴキブリのようにこそこそ逃げていく。何なんだあいつらは。

 とりあえず足の踏み場だけ確保し部屋に戻ると、部屋の真ん中で震えているので、手首をつかんで、風呂場まで連れてきて、「とりあえず体洗ったら」と言う。しかし、言葉が通じないだけでなく、風呂の設備を見ても何がなんだかわからないらしく、ボケッと突っ立っているだけだ。周りをきょろきょろ見回し、不安そうに私のほうに振り返る。仕方がない、毒を食らわば皿までじゃ。シャワーのお湯のほうを栓をひねると、よっしゃ! お湯が出る! まずは、髪の毛についたのから洗い流していく。お湯をかけると強く擦らなくても、割合簡単に取れてくれて助かった。体のほうも、雑巾か何かわからんようなものしかなかったのだが、タオルで擦って洗い落とす。強く引っ張るとタオルがびりびり破れる。大体満足なように仕上がると、もうちょっとましなバスタオルはないのかと、一生懸命探すのだが、結局一番乾いているのを選んで水気を切ると、埃っぽくて、なんだかもう一度洗わなければいけないのではないかという気分になってくるが、とりあえずの最低ラインの目的は果たした。次は服だ。しばらくそのバスタオルを羽織って隅にうずくまってもらって、服を探す。しかし、岡田の服はどれもこれもキングサイズで、Tシャツを着せれば膝下まで届き、上着を着せれば指の先が完璧に隠れて、ズボンはそれぞれの筒に一人ずつ入りそうな勢いだ。とりあえず毛布でくるんで寒さと視線から守ると、ますます埃っぽくなってしまっている。

 さて、これからどうする。とりあえず次にやらなければいけないことは、彼女の服を手に入れることだ。上下の下着、あとパンツかスカート、シャツ、上着。女性の服なんか買ったことないが、まあ、ああいう店の店員はこちらがいやになるほど親切だったりするから大丈夫だろう。プレゼントだとでも言えばいい。下着も含めた服一式プレゼントするのは少し変かも知れないが。と思って出かけようとする。タンスの上の埃を息で吹き飛ばし、目を閉じて埃がおさまるのを待って、鍵を探す。無い。無いはずは無い。岡田がいつもここに鍵を置いていたのを知っている。以前、床にほっぽらかしにしていて踏んでしまい、お気に入りのキャラクターを粉々にしてしまって以来の習慣だ。いつも部屋に帰ると真っ先にここに置いた。やつは、部屋は汚く衛生に気を使わないことこの上ないにもかかわらず、妙なことに几帳面かつ神経質で、部屋の隅に積みあがっている漫画本の山を崩して読んでいたら、勝手に動かすと何がどこにおいてあるのかわからなくなると、烈火のごとく起こり始めたりしたものだ。やつが、こういう瑣末な習慣をそう簡単に変えることはありえない。落ちているのかと近くの床も探すが、見当たらない。振り返ると、少女はうつらうつらしている。「ねえっ」と呼びかけると、驚いて目をまん丸に見開き、顔を起こす。

 「鍵どこにあるか知らない」

 顔に驚きの表情が張り付いたまま動かない。

 「ごめん、なんでもない」

 四つんばいになって鍵を探していたら腰が痛くなったので、立って腰を伸ばす。さてどうする。鍵をかけずに出かけるのは危険だ。飢えた大学生ほど恐ろしいものは無い。元岡田かもしれないとはいえ、いたいけな少女を裸で置き去りにするわけにはいかない。この状態じゃ、中から鍵を閉めてといっても無理だろうしな。大家に鍵を借りるか。でも、今、大家に話しかけるのは少し怖いな。会ってくれないかもしれないし。それに、階段を降りて大家の部屋まで行く間での間でも、部屋を空けるのは不安だ。じゃあ、どうする。裸のままじゃ、一緒につれて出ることもできない。しかし、外に出ないと服は手に入らない。だったら私がこの服を脱いで、この服を彼女に着せて、私が岡田の服を着るというのはどうだろう。これなら、まだましになるだろう。この女の挙動がおかしいのは、知恵遅れだからということにすればいい。二人とも服装が変なことを指摘されたら、実は僕も知恵遅れなんですよ、えへへ、どおもすいません、とか言ってごまかそう。よしそれでいこう。

 と思っていたら、突然背後からピトッと抱きつかれた。振り返ると、少女が右腕にしがみ付いている。いくら痩せているといっても少女の体は柔らかく、突然のその感触にドギマギしてしまう。さっき体洗うときに触りに触ったばかりであるが。

 「なに? どうしたの」

 そう尋ねると、何か困ったような潤んだ目で見上げてくる。体が心なしか震えている。

 「どうしたの? 寒いの? それとも、何かが怖いの?」

 少女の方に左手をかけようとしたとき、太ももから下にかけて暖かい液体が流れるのを感じた。それが何かを確認するために恐る恐る下を見て、それが何かを確認すると、思わず天を仰いだ。もちろん天なんかこれっぽっちも見えず、見えるのは蜘蛛の巣だらけの天井、その中のひとつから巨大な蜘蛛がスーッと降りてきて、私のおでこの真ん中ににピトッと張り付いた。

 

 

 私は物を考えていた。

 私は下半身をしとどに濡らして、おでこに足の先があごより下まで届いてまるで素敵な中国人の泥鰌髭みたいになるくらいの蜘蛛をくっ付けながら考えたのだ。

 もうだめだ。一人で抱えられる問題ではない。誰かの手助けが必要だ。そう、助けだ、助けを呼ばなければ。

 汚れた服をバケツに放り込んで風呂場に入れておき、とりあえず岡田の服を着て、ベルトに新しい穴をあけてずり落ちないようにする。そして、誰に手助けを求めるべきか考えてみた。とりあえず、服を持ってきてもらわなければいけない。これくらいのサイズの女の子は知り合いにいる。しかしそもそも決して多くない女性の知り合いの中で彼女はさして仲がよいほうではないし、果たして下着含めた服装一式を待ってきてくれ、と言ったら、持ってきてくれるだろうか。どう理由付けたら怪しまれないだろうか。自分で着るから、とか? 買ってきてもらうことにしたら、別に同じ背格好である必要はないけど、やっぱり怪しまれてしまうことでは同じだ。その点ではもしかしたら男のほうが、説得しやすいかもしれない。しかし、女性用の下着を買ってきてくれ、とはやはり頼みにくい。姉妹のいる自宅生に盗んできてもらうか。できれば友人を変態にはしたくないのだが。じゃあ、すでに変態のやつに頼むか。

 幸か不幸か、心当たりがあった。

 植木だ。あいつは隠し部屋に実物大の女の子の人形をたくさん飼っていた。服や装飾品もちゃんとした人間のものを着けさせ、その一部は手作りだったりするはずだ。やつならこの子にぴったりの服を持っているはずだし、頼めばいぶかしみはするだろうが、ブイブイ文句を言いながら持ってきてくれるだろう。植木は岡田と同じくらいデブで、同じくらい人のおかずを勝手に食べ、同じくらい五分以上歩かせるとブ〜ブ〜文句を言うが、強く頼み込めば断れない奴だ。それに、ここの場所を知っている。

 しかし、あいつをこの件に関わらせたくない理由もある。何しろ変態だし。まあ、とりあえず電話で呼んで、服だけ持ってきてもらって、それからのことはそれから考えよう。いざとなれば、玄関で追い払えばいい。ますますここの脱出が難しくなるが、しばらくしたらみんな飽きて消えるだろう。うん、そうだ、きっとそうだ、そう思っておこう。そして後で、あの考えは甘かったな、と悟ることにしよう、いつもどおりに。

 通信回線の向こうで、植木はかなり困惑していたようだが、「なんで?」と聞かれて「なんでも!」と答えたら、こちらの切迫が伝わったのだろうか、もう理由を聞かなくなった。在庫の中からいくつかを持ってきてくれるという。

 「で、どういうのを持ってけばいいんだ?」

 「ショーツとブラジャーと、シャツと上に羽織るジャンパー、あと、そうだな、ジーンズにしよう。どれも地味目のもので頼む、」

 ジーンズにしたのは、スカートだといろいろフリルとかついてそうでいやだから。

 「サイズは?」

 「ええっとね、身長は160ないくらいでね、ええっと、かなり細めな感じ」

 「スリーサイズとか分かる?」

 「ちょ、ちょっと待って、(えっと、測る物測る物)、え、あ、ちょっとわかんない」

 「じゃあブラジャーのサイズくらい分かる?」

 「え、ええとぉ、手のひらにすっぽり収まるくらい」

 「あのさ、お前何を見ながらそれ言ってるの?」

 「え? あ! ああと、メモ! メモがあるからそれを見てるの」

 「そのメモに手のひらにすっぽり収まるくらいって書いてあるのか?」

 「う、うん、そうなんだよ」

 「ふーん、じゃあ、大体な感じでいくつか持っていくから、そっちに着いてから選んでくれよ」

 「分かった」

 「じゃあ、すぐ行くからな」

 と向こうで電話を切ろうとする気配がする。そこではっとある可能性に気づいて急いで言い足す。

 「あ、そうだ! 生理ショーツもついでに持ってきてくれないかな?」

 「生理ショーツ? そんなの持っているわけないだろ」

 「………」

 「………」

 「それもそうだよな。あははははははは」

 ピッ

 相手が何か言う前に接続を切る。持ってたら大問題だよな。

 三十分ほどで、アパートの前に車の止まる音が聞こえた。ガンガンガンと階段をかなりの体重の人間が走り上ってくる音が聞こえる。「ちょっとどいて、ちょっとどいて」という声も聞こえる。野次馬どもはまだ去っていないのか。

 「おい、持って来たぞ! 何でこんな人だかりができてるんだ?」

 ドアをドンドン叩きながら植木が叫ぶ。何人かの人間が階段を駆け上る音が聞こえる。窓とか、ドア以外の部分からの覗いたりあわよくば侵入しようとしていたやつらが、なんだなんだと見に来たのだろう。今ドアを開けるわけには行かない。

 「植木、植木」

 ドアを指でこんこん叩きながら小声で呼びかける。気づいてくれ。

 「何だ?」

 気づいてくれた。ドアに顔を寄せてやはり小声で聞いてくる。

 「頼むから、ちょっと馬鹿笑いしてくれないか?」

 「馬鹿笑い? なんで?」

 「なんでもだ」

 ドアの向こうで植木が背筋を伸ばすのを感じた。どうやら息を思いっきり吸い込んだらしい。すこしガヤガヤしていた外が真空のように静まっている。植木の一挙手一投足がみなの注目を浴びているのだろう。

 「くふふふふふ」

 断続的に空気が漏れるような音が聞こえた直後、

 「ぶわっはっはっはっはっはっはっは!」

 と地面が揺れ、空が落ちてくるような大音声が発せられた。外の廊下で何人かが驚いてしりもちをつき、何人かが階段を転げ落ち、何人かが手すりを乗り越えて地面に落下していくのが聞こえた。かく言う私も、ドアに耳をつけていたものだから、予想していたつもりながらの予想以上のダメージに、耳を押さえてその場にへたり込んでしまった。しかし、こんなことしている場合ではないことに気づき、死力を振り絞り、ドアを開けて植木を中に引きずり込んだ。

 「うへぇ」

 植木は部屋の惨状に型どおりの反応をした。

 「お前その服、ダブダブじゃん」

 そっちかい! しかし私はその隙を逃さず、植木が肩にかけていたかばんを分捕り中身を確認する。だいたいOKだ。

 「じゃ、ありがと。この礼はいつか必ずするから、とりあえず君はこれで帰って」

 植木は一瞬ぽかんとしたが、すぐに怒り始めた。

 「おい、それはないだろう。協力させておいて、何が起こっているのか教えないなんて、そんなの許されると思っているのか? いったい外の人だかりは何だよ? 何でそんなダブダブな服を着てるんだよ? この部屋はどうしてこんなことになってるんだよ? 岡田はどこにいるんだよ? その服はいったい何に使うんだよ? おい、答えろよ」

 「分かった、いつか答える。しかし今日は頼むから帰ってくれ。それに今帰らないと大変なことになるぞ。外のやつらのせいで、俺たち今ここに閉じ込められてるんだよ。今はまだ外のやつらの混乱が収まっていないから、出られそうだけど、そのうち包囲網はもっと狭められるだろう。そしたらお前だって閉じ込められるんだぞ。多分、馬鹿笑い攻撃も、もう効かないだろう。そしたら、お前は俺らみたいに身が軽くない分、逃げ切れる公算は少ないんだぞ。お前もこんな汚いところに閉じ込められるのはいやだろう。だから、今のうちに……」

 「俺ら? 俺たち?」

 黙って私の話を聞いていた植木が突然口を挟んだ。

 「ここにはお前以外に誰かいるのか? 岡田か? いや違うな。岡田は間違っても身軽じゃないからな」

 言うのを忘れていたかもしれないが、このデブは決して馬鹿じゃないのだ。まったく厄介だ。

 「ほかに誰かいるんだろ。お前じゃ話にならんから、そいつに合わせろよ」

 植木が私の制止をものともせず、前進を始めた。私も決して力が弱いほうではないと思うのだが、いかんせん体重が違いすぎる。このままでは彼女がいる隣の部屋まで押し切られるのにそんなに時間がかかるまい。一応、植木が入ってくる前に、玄関からは見えない壁際に非難させておいたのだが、彼女がこの騒ぎを耳にして、自分の意思でどこかに隠れてくれるとは思えない。部屋と部屋の境まではすぐに押し切られる。ここで左右の壁に足をつけ、それを支えにして何とかこらえようとする。これでも私は土俵際の魔術師とも踵に目があるとも言われたことは一度もないが、それでもここで踏ん張らなければ男がすたるというものだ。しかし、胸と胸が合わさって、上に乗っかられるようになってしまい、ちょうどさば折りの体制になりこのままでは腰も膝も耐え切れない。ヤられる、と思った瞬間、背後に気配を感じた。振り返ると、毛布を羽織った少女が目を真ん丸くして何かを見上げている。物音に隠れてくれるどころか興味を持って出てきてしまったのだ。その見上げた先を見ると、植木がやはり目を真ん丸くして少女の顔を穴が開くほど見つめている。二人の視線と視線が、大体私の頭上あたりで絡み合い、謎の化学反応を起こしていた。植木の顔は驚きで固まってしまっている。その顔を見て少女はにこっと微笑んだ。八重歯が光る。私にしたのと同じ顔だ。それを見た植木は、顔全体を熟れたトマトのように真っ赤にして、視線を落とし、そして少女の顔の下にあるもの、毛布に包まれたもののほうを見てしまった。そして口をあんぐりあけたまま、固まってしまった。

 力が抜けている! 今がチャンスだ! 

 「うおおおおおっ、火事場のクソ力じゃぁ!」

 ぶっとい首に喉輪をかけて相手の体を起こし、左手はおっつけて相手の右手を封じ、両足を踏ん張り力いっぱい押した。所詮体がでかいだけのただのデブ。足腰が弱い分、崩してしまえばこちらのもんだ。ドアのところまで押し出して、ドアを開けて、外に排出完了。群がる群衆が目を丸くしているうちにドアを閉める早業だ。

 錠を閉めなおして、急いで少女の元へ駆けつけようとすると、外では正気に戻った植木が、かんかんに起こってドアをぶったたいている。無視! 今は無視だ!

 急いで少女にショーツをはかせて、ブラジャーを付ける。他人に服を着せるのは初めてな上、急いでいると何事もうまくいかない。むちゃくちゃ細くて刺繍が入った高そうなジーンズにつっかえつっかえ足を入れさせる。よく考えてみると私は自分でズボンをはくときでさえ、足が入りきる前に歩こうとして、床に勢いよくキスをしてしまうことがあるのだ。他人の服を着せている場合ではない。万歳をさせ、なんかよく分からない英文が書いてあるTシャツに袖を通させる。そしてもこもこのジャンパーを着させて完了。玄関ではさっきと明らかに音の種類が変わって、どうやら植木が体当たりをかましているらしい。早くしないとぶち破られる。窓を開け、周りに散在する野次馬にカビの塊や、キノコの生えた岡田の下着(おそらく伝説のサルマタケと思われる)を投下して追っ払う。そして、少女を両手で抱え上げるのだがそのときになって「あっ、靴持ってきてもらうの忘れた」と気づくがもう遅い、羽毛でできているのかと思われるほど軽い少女を担いで、窓から地面に飛び降りた。ほぼ同時に後ろでドアの金具がはじけ飛ぶ音が聞こえた。

 一瞬の無重力、そしてドスン。無理に着地して、膝だけで衝撃を吸収するのではなく、足、膝、尻、腰、背中と体を丸めて転がりながら、できるだけショックを和らげる。ただそれも人を一人抱えてやるのは難しいが、できるだけ腕の中の少女を包み込むように、強い力がかからないように、数回ごろごろ転がる。腰と膝がむちゃくちゃ痛い。よろよろと立ち上がりながら、周りを見回すと、さっき追っ払った奴らがこっちを窺っている。上では、植木がギャーギャー騒いで、周りの人間に、お前はあっち、お前らはこっちと指令を下している。どさくさにまぎれて全権を掌握したらしい。さらに窓から身を乗り出して、下にいる人間にも命令を発しようとする。早く、こいつらの勢力圏から脱しなければ。少女を肩に担いで、塀まで走りより、塀の上に担ぎ上げる。少女は今になっても何が何やら分かっていないようだが、本能的に塀の上部に取りすがってくれた。地上では植木の手下に下った野次馬どもが、距離を詰めてきて、飛び掛るタイミングを計っている。一人が間合いに入った瞬間、振り返りざまにポケットに隠していた武器を取り出し、思い切り横っ面を撥ねる。

 「破傷風チョ〜ップ!」

 この技は、岡田の発酵しきった香ばしい靴下に、部屋にあった食玩やら何やらを適当に詰め込み、思い切り振り回す技で、その物理攻撃力はいうに及ばず、傷口から菌が入って破傷風にかかってしまう恐ろしい技である。バナナマンはこれに苦しめられた。植木の戦闘員どもが明らかにひるむのを感じたので、それをぶんぶん振り回しながら数歩前に出る。十分な距離を稼いだらぱっと振り返って、塀に向かって走り出し、壁を蹴上がった。塀の上まで上がると、少女の体を引き上げる。一人がその足をつかもうとしたので、顔に靴下を投げつけてやる。「ぎゃーーっ」と叫んでもんどりうつと、地面に転がってもだえ苦しみ、ガクッと気絶してしまった。そのうちに、塀の反対側に降りて、少女を抱き下ろす。しかし、もう道の両曲がり角の向こう側からは、ガヤガヤと狂った群集たちが、「持てる者と持たざる物とがいる矛盾」やら「私有財産制の廃止」やら「独り占めすんな」とか「美少女は世界の宝だゾォ〜!!」とか雄たけびを上げながら大勢歩いてくる音が聞こえる。その中には植木の野太いシュプレヒコールも聞こえる。まずい、このままでは嬲り殺しにされる。さあ、どうするどうする。曲がり角を曲がって狂熱したデモ隊が現れたとほぼ同時に、意を決して私は高々と手を上げて叫ぶ。

 「一番、小話をします」

 群集が一瞬で静まり返る。見渡す限りほぼ全員の目が自分のほうに向いている。自律神経がおかしくなって、体温調節と汗腺が同調していない。心臓はボクサーの猫パンチに苦しめられるパンチングボールのように激しく振動する。膝ががくがく震える。しっかり立て! けつの穴閉めて、足の指先踏ん張らんかい!

 「題名、親子シャブ

 あるヤクザの組長が、自分の息子の若頭と話しています。

 『てめえみてえな、首が三つもあるやつに組はやれねえ!』

 『俺だって、こんなぐ〜るぐる回る組なんかいるかぁ!』」

 シーンとしている。何の反応も起きない。いやそんなことはない。どこかでかすかな音が、恐ろしく狭い隙間を、空気が漏れるような音が聞こえる。

 「くふ、くふふふふふふ」

 音の発信源の近くにいた何人かが、その招待に気づいてギョッとした。植木が顔を真っ赤にして、目に涙を浮かべて、体をくの字に曲げて、ただあまりにも胴が太いので、とてもくの字には見えないが、笑いをこらえているのだった。

 先程の馬鹿笑いの威力を知っているものは、真っ先に逃げようとした。嘘笑いであの威力なら、本笑いではどうなのか、創造するのも恐ろしいからだ。しかし間に合わなかった。

 「ぐふ、ぶふふ、ぶぅわっはっはっはっはっはっはっは」

 衝撃波が起こるバンという音がしたような気がした。植木の周りにいた何人かは文字通り吹っ飛ばされた。吹っ飛ばされなかったものも、目と耳と鼻から血を噴出してその場に崩れ落ちた。窓ガラスが何枚も割れた。瓦が飛んだ。ブロック塀がガラガラ崩れ落ちた。群集たちは多くは気絶し、残りはパニック状態に陥り、我先に逃げようとし、ぶつかり合い、踏み踏まれ、総崩れ状態となった。私は瞬間的に少女の頭を腕でヘッドロックをかますようにジャンパーの中に匿い、自分も両耳を力いっぱい塞いだ。それでもすさまじい音と風に、唇が裏返り、目が一瞬にして乾燥しきり、足の先が地面から離れそうになるが、少しの辛抱だ。植木は一通り笑った後、必ず酸欠になって一定時間行動不可能になる。そのチャンスにかけるしかない。

 治まった。突然の静寂に、耳が聞こえなくなったのかと一瞬疑うが、風圧も消えている。私は少女をそのまま小脇に抱えて、膝に手をついてハァハァ舌を出している植木の横をすり抜け、阿鼻叫喚の地獄絵図と化した絡み合った肉の川に分け入り、どこから湧いて出てきたのかよく分からない哀れな男どもの頭を次々踏みながら、何とか大通りまで逃げることができた。

 さすがに息が切れ、交差点の植え込みの端に腰を下ろす。少女もその横にちょこんと座る。呼吸と脈拍が収まるまで追っ手が来ないことを、空飛ぶスパゲティ・モンスターに祈りながら、さて次は何をするべきかと考える。とりあえず、この子をどこかに預けないと。今度こそ、女友達の誰かに頼み込める。ただ、トイレの躾から始めなければいけないとすると、相当世話好きで、気が短くない人でなければいけないだろう。そう考えると、私の知り合いの女たちはどいつもこいつもキーキー怒っているのばかりな気がしてくる。まあ、この子が可愛くて何よりだ。これは重要なカードになる。あと、預ける理由も必要だ。本当のことを言って信じてもらえるだろうか。ただ、それに変わる理由も、「悪の組織に追われているから」とか同じくらいリアリティに欠けるものしか思いつきそうにない。「そんなあぶないもん、あたしんとこに預けるな!」と怒られるのが関の山。さてどうしたものか。

 ふと顔を上げると、道行く人が私の顔を見ている。私が顔を上げると、顔を逸らして足早に去って行ってしまった。その他の人々も、こちらに注意を向けながらも、何とか直視してしまうのを我慢しているような感じだ。中には、こちらを見てギョッとして、急に足を速める者もいる。なんだ? 隣を見ると、少女が足をぶらぶらしておとなしく座っている。そんなに私が女連れなのがおかしいのか? まさかそんなわけはない。いくらなんでもこれだけの人数の人間が、私の私生活に女っ気があまりにないことを知っているはずがない。あっ、そうか、こいつが靴を履いてないからいけないんだ。それでみんな変な顔をしているんだな。まずは靴を買わなくちゃ。

 少女の手を掴んで、商店街のほうに歩き出す。やはりみんながこちらを見ているような気がするし、私たちの周りだけ、妙に人が避けて通るのも不思議だ。靴を履いていないことが、そんなに問題なのだろうか。イギリス人にとって裸足は恥部だと聞いたことがあるが、ここは日本のはずだ。気候風土の違う日本に、ヨーロッパの文化を押し付けてもらっても困るのだ。

 もしかしたら、私のこのダブダブの服のほうかもしれないな、とすこし不安になる。

 ぺたぺたという足音を聞きながら、手を引いたまま靴屋のドアをくぐる。どうしようか、あんまり高いのは買えないけど、ま、店員さんにおまかせにするかな。と気楽な気持ちでカウンターに行き、店番をしていた女性の店員さんに話しかけようとする。

 「あの、ちょっとすみません」

 「はい」

 業務用の笑顔で店員さんがこちらに振り向く。そして私の顔を見たまま、固まってしまう。まずは笑顔が凍りつき、その後、眉、目、口、とギクシャクと筋肉の緊張がほどけていく。瞳孔が音がしそうな勢いで大きく開く。口の端がぴくぴく痙攣している。

 「どうしました?」

 私が聞くと、店員は口を開いて、何かを言おうとするのだが、

 「あわわわわわわわわわ」

 というような音しか出てこない。

 「あの、大丈夫ですか?」

 と顔を近づけると「ひっ」と息を吸い込んで、しりもちをついてしまう。そして私のほうを指差しながら、

 「だ、だ、だ、だ、だ、だ、だ、だ、だだ」

 とつぶやく。ダダ? 芸術運動の? それとも三面怪人? 私が困惑して、カウンターの向こう側に回ろうとすると、突然

 「誰か〜! 、助けて〜!」

 と叫んで、そのまま、気を失ってしまった。いったいどうしたんだと思って、肩をゆすぶってみるが、白目をむいてしまって反応がない。妙なにおいがすると思って見てみると、スカートの股間部分からジワリと染みが広がり始めている。一体全体どうしたんだ? こんなのを店番にしちゃ困るよ!

 「おい、どうしたんだ!」

 店の置くから声がする。まずい! 逃げなきゃ! 何で逃げなくちゃいけないのかもよく分からないまま、少女の手を引っ張って外に走り出ると、高そうな外国車に寄りかかって、植木が立っている。

 「さっきはよくもやってくれたじゃないか」

 なんで? どうしてこいつがここにいるの? と混乱しそうになるが、ふっと思い当たることがあった。

 「まさか、発信機?」

 かばんの中や少女の着ている服のポケットの中などを探る。

 「そんなに分かりやすいところに隠すわけないだろ」

 「それもそうだな、じゃあ、どこだろ? ショーツのクロッチ部分とか?」

 「そんなところに隠せるような小さい発信機まだねえよ! だいたい、穿きゃ気づくだろそんなの」

 「じゃあどこだろ、このジャンパーの羽毛のもこもこの中かな?」

 「お前の背中だよ!」

 「えぇっ!」

 背中に手を伸ばすと、確かに小型の機械が張っ付けてある。いつの間にこんなものを。

 背後の店の中で「おい! 大丈夫か、おい!」という声がしている。これ以上、ここにいるのは得策ではなさそうだ。少女の手を握ったまま、できるだけさりげない風を装って、

 「じゃあ、僕はちょっと忙しいから」

 と立ち去ろうとすると、案の定、そうは問屋が卸してくれず、

 「おいちょっと待てよ」

 と植木に呼び止められる。

 「なにかな?」

 笑顔で振り返る。足は止めない。

 「まだひとつくっ付いているものがあるぞ」

 「へっ?」

 驚いて立ち止まってしまう。もう一度背中に手を回して、何かがついてないか確認する。私は背中で右手と左手を組むことだってできるのだ。背中で手が届かないところはないはずだ。

 はあっ、と息を吐いて植木は心底あきれた顔で、

 「あのさぁ、お前さぁ、その頭に乗っかっているやつ、もしかして本物の蜘蛛?」

 と聞いてきた。蜘蛛? 頭に手をやると、手のひらと髪の毛の間で、何かがわさわさ動いている。あのときの蜘蛛だ。取るの忘れてた!

 びっくりして引き剥がそうとすると、頭皮にチクッと何か針のようなものが刺さるのを感じた。背骨の中心を甘い蕩かすようなパルスが上下に這いずり回った。全身のすべての関節から力が抜け、舗装された地面が暖かい泥沼になり、そこにずぶずぶ沈んでいきながら、心地よく意識を失った。

 

 テレビに映る剥製師の顔はちょっぴり私に似ていた。男は凍りついた笑みを浮かべ、甲虫に獣の頭蓋骨を掃除させる方法を説明していた。

 「たとえば、このアナグマの頭でやってみましょう。皮を剥がして煮沸してから、肉をあらかたそぎ落とします。あとは箱に放り込むだけ。残りは全部、この子たちがやってくれます」

 カメラが下を向くと、青白い甲虫の群れが骨にたかり蠢きあふれ、眼窩に入りこんでゆく。

 「昨日のうちに入れておいたものがあります。では仕事ぶりを見てみましょう」

 箱から取り出した白く輝く物体は、小さな人間の頭蓋骨だった。男の凍りついた笑みにあわせて笑っている。

 「これこそ小さなピラニア。きれいさっぱりになりました。さあ、まだありますよ」

 男はもう一度箱に手を、ふすま桶からプレゼントを取り出すように差し込んだ。笑みはしばらくそのままで、それからかき消えた。手は箱につかえてしまったようだった。

 「だだ誰か助けて!」

 私は大声で叫ぶのだが、スタジオには私以外に人っ子一人いず、ただ無人のカメラが冷たい目でこちらを見つめているだけだ。何とか手を引き抜こうとがんばるのだが、反対に引きずり込まれていく。もしかしたら、飴を握りっぱなしだから抜けないのだろうかと思い、手を開いたり閉じたりしていると、虫が皮膚を食い破り、肉の中に潜り込んでいくのを感じた。

 恐怖に駆られ、どうすれかいいか分からぬまま、とにかくこの場から逃げ出したいと思い、その場から逃げ出してしまった。

 行く当てもなく走り続けて、気が付くとどうやら下水道にいるらしい。ほぼ完全な闇の中、目が慣れてくるまで、その場に立ち止まる。耳を澄ましても、聞こえてくるのは水の音ばかり。しかし、その水の音に混じって何かが聞こえてこないか。首をすくめ、周囲に気を配ろうとするが、何も見えてこない。ただ、皮膚の毛穴の一つ一つが、暗闇が蠢くのを感じるのだった。そして唐突に気付いた。自分の周りを取り囲む、暗闇と見えたものは、実はざわざわと蠢く小さな虫たちの集合体であったことに。虫たちもこちらが気付いたことに感づいたのか、まるで生きた雲のように舞い上がり、口や鼻にたかろうとする。それを必死に手で追い払い、隙間のない黒い絨毯を蹴散らし逃げようとすると、足の先に何かがぶつかる。虫たちに覆われた何かが転がっているのだ。怒り狂ったようにブンブンうなる虫を追い払うとそれは岡田だった。厚い虫の層をこそげ落とすと、岡田の体はそれ自身が白い燐光を放っているように見えた。抱き起こそうとするのだが、予想してしかるべきだったが、あまりの重さのため、一人の力ではとても無理で、結局諦めて放り出してしまった。岡田の体はうつ伏せに転がって、顔面を水面に浸けこんでしまう。このままにしちゃまずいよな、と思いながらしばらく見ていると、見る間に岡田の背中がぴりぴりと裂けて、中から、燦然と輝く天使のような美少女が、背中にふやけた羽を生やして現れた。周りの虫たちはその光に退散させられ、光の圧力のせいだろうか、頭上でマンホールが吹き飛び、ヤコブの梯子のように光が差し込んだ。その美しい少女は、羽をしっかりと開くと、にこりと微笑んだまま、その光の中を、飛び去っていってしまう。私はそれを立ち尽くしたまま見守るしかないのであった。

 私の肩を叩く者がいる。

 「なんか忘れてないか?」

 「へっ?」

 振り返ると、それは中身のなくなった、岡田だった。

 「お前、なんか忘れてるだろ?」

 なんだろう、何を忘れてるんだろう。岡田の空っぽになった眼窩から、蜘蛛が這い出してきた。それを見ていたら、なんだか、皮膚がむずむずしてくるような気がしてきた。それどころか、気がしてるんじゃなくて、本当にむずむずしてるような気までしてきた。それも体中で。シャツをめぐってお腹を見てみると、丁度、何匹かの虫が皮膚を食い破って顔を出すところだった。お腹だけでなく、シャツをめくっているその腕や、脚、さらには、顔の皮膚からも………

 

 「きょうこーーーっ!」

 毛布を跳ね飛ばして、飛び起きた。しばらくは息を切らしながら、そこがどこかも分からなかった。息が収まってようやく、夢を見ていたことに気が付いた。そして当然の疑問を口に出した。

 「きょうこって誰?」

 「いや、俺に聞かれてもね」

 答えたのは植木だ。植木がキャスター付きの椅子に背もたれに腕を乗せ前後逆にまたがって、ギシギシズルズル滑ってきた。

 「誰なんだろう、一体?」

 まったく心当たりがないので、思い出そうにもどこから思い出せばいいのか分からないでいると、

 「まあ、それはいいから、もう少し寝てろや」

 と植木に言われた。そこで初めて自分の状況が気になった。頭に手をやると、ガーゼがはっつけてある。

 「お前、蜘蛛の毒でビクビク痙攣しているところを、助けてやって、血清まで注射してやったんだから、感謝しろよ」

 と植木。そこでようやく記憶がつながり始め、

 「じゃあ、ここは病院」

 と周りを見回すが、明らかに、

 「じゃないよな」

 植木の部屋のソファの上だ。

 「じゃ、お前が」

 と指差すと、

 「ふふん」

 と鼻を鳴らして、

 「俺、こう見えても、毒物には詳しいんだ。特に麻痺系の奴はね」

 とのけぞり返る。そんなこと自慢されても困る。だがそんな私の感想にはお構い無しに、得意げな話は止もうとしない。

 「あの毒はおそらく、蜘蛛が動物を仮死状態にさせて、卵を産み付けるためのものだ。だからあれで、死ぬってことはないと思う。ただ、まだ体内に毒が残っているかもしれないから、あと、一時間ほどは、そこに寝て動かないほうがいいね」

 その話を聞いて、先程の今やだんだん薄れ掛けてきている夢の記憶がすこしよみがえってきて、なんだかいやな気分になる。何か別の話題にそらそうと思って、重要なことを思い出す。

 「あの子は?」

 「ああ、向こうで寝てるよ」

 とドアの向こうをあごでしゃくる。あそこは植木の寝室だ。

 植木は、かなり裕福な実家から大学に通っていて、その家はかなり古い日本家屋を改築したもので、植木はその離れを自分用にまるまる使っている。ここなら怪しげな趣味に没頭できるし、物の置き場所にも困らない。それに植木とその家族はすぐ隣に暮らしていながら家族断絶同然で、しかも植木は得体の知れないアルバイトで、生活費と学費ぐらい簡単にたたき出し、食事はジャンクフードのみだ。こいつの正門であるところの裏口から入れば、家のものに見られずに、女の子一人と仮死状態の男一人も連れ込めるわけだ。女の子一人くらいだったらここで飼えるのかもしれない。

 「で、説明しろよ、どういうことなのか」

 十分に巨大なのだが、更に巨大な胴体に埋没して、いまいち大きさのつかめない頭部にこれまた埋没した目が、めがねの奥で怪しく光る。やっぱりこいつを事態に関わらせたのは間違いだったかもしれない。こいつが好奇心丸出しになって、事態がよくなったためしがない。ただもう逃げ場がなくなったし、ある意味ではこいつはあまり気持ちのいいやり方ではないかも知れないが、とりあえずこの事態を切り盛りしていく能力がある奴かもしれない。いざとなったら丸投げだ。後は野となれ山となれ、精一杯やったんだから、その後の進展には目をつむり耳をふさげ。

 あまり気乗りはしなかったが、ポツリポツリと説明をし始めた。

 植木はあまり質問をしなかった。信じているのかどうかは測りかねたが、とにかく理解はしてもらえたようだ。一通り話し終えたとき、植木は何かに神経を集中して考え込んでいる様子だった。前にも一度行ったと思うが、こいつは馬鹿じゃない。今の話から何か、一連の怪異の謎を解く鍵をつかんだのかもしれない。

 「どうした、何考えている」

 「……一つ分からないことがある」

 なんだろう。まあ、分からないことといったら分からないことだらけだが、何か私が気付いていないような疑問点でもあるのだろうか。

 「なんで、ヤッちゃおうとおもわなかったの?」

 ずっこけそうになった。ソファに寝っ転がっているのにもかかわらずずっこけそうになったのだから、相当なものだと思って欲しい。

 「はぁ?」

 「いや、だからさ、チャンスは何回でも合ったと思うんだよ。風呂場で体を洗ってるときとかさ。何でヤんなかったのかなぁ、と思ってさ」

 難しい質問だ。そういう方向に意識が行かなかったわけではないが、あわよくば事に及ぼうとは一度も考えなかった。考えたけどやらなかったことのやらなかった理由を探すのはそんなに難しくないことが多いが、まったく考えなかったことの考えなかった理由を探すのは大概難しい。

 「まあ、混乱してたし、妙な野次馬も多かったし、あと部屋がああいう状態じゃね」

 何故言い訳口調になるのか自分でも不思議に思う。

 「それにさ、一応もしかしたら、あれ、岡田なのかもしれないじゃん。そう思うと、俺はちょっと遠慮すると言うかなんというか」

 「そう? 俺は気にしないけどな」

 君はもうちょっといろんなことを気にしたほうがいいけどな。

 「で、これからどうするの?」

 「それについてはいろいろ考えた末に、もう何も考えたくない気分になってきているところだよ」

 「じゃ、しばらくうちで預かろうか」

 言うと思った。さっきの会話から、預けたくない気持ちがまたムクムクと立ち上がってきたが、丸投げするとさっき決めたんだった。もうどうでもいいや、早くおうちに帰りたいよう。

 「繭の中から出てきたってことは、多分昆虫の変態みたいなことが起きたんだと思う。すると身体を構成する器官は一度分解され再構成されてしまう。だから記憶もないし、言葉も喋れないんだと思う。ただ数日すれば何らかの変化があるだろうし、もしかしたら岡田の記憶がよみがえるかもしれないぞ」

 ため息を一つ。

 「ま、とりあえずはそれでいいか」

 「近いうちに、もう一度話しあおうな」

 と言うわけで、とぼとぼ道を歩いて、疲れきった状態で家に帰ったときには、もう日が暮れていた。

 

 

 結局話し合いは行われなかった。めんどくさかったからである。

 それから数日は何事もなく過ぎていくように思われた。毎日があんな大騒ぎだったら身体が持たない。

 三日後、コンビニで雑誌を立ち読みしているときに、植木とあの少女が連れ立って歩いているのを見かけた。女の子は予想にたがわず、フリルがフリフリついたピンク色の服を着せられていて、ストライプのタイツを穿かされている。下の躾はどうしたんだろうか、ああいうランプシェイドみたいなスカートならオムツを穿いていてもばれないな、とか考えながら目で追っていると、植木がこっちに気付いた。どんなもんだい、みたいな顔をしている。いや、羨ましがっているんじゃなくて、半ば呆れてるんだけどなぁ。まあ、いいや。それぞれの生き方、それぞれの愛だ。私の知ったことじゃない。それより驚いたのは、植木にも増して女の子の方がはしゃいでいたことだ。植木の腕にしがみついて、ぶら下がらんばかりの勢いだ。顔中を口にするように、笑っている。三日前とは大違いだ。

 あの部屋での視線の絡み合いが思い出された。あの時、植木はもちろん、女の子の方も、並々ならぬ反応を見せていた。

 もしかして悔しがっているのだろうか私は。まあいい、人間にはさまざまな趣味がある。ちょっと太めな人が好きな人もいるし。すごく太めな人が好きな人もいる。いろいろな人がいて、いろいろな愛があって、世の中はうまく回っていくのだ。この幸福な出会いをとりあえずは祝福して、生暖かい白い目で見守って行こうではないか。

 植木と同じものをもりもり食っているのだろう、たった三日でずいぶんふっくらした少女は、花に誘われた蝶のように、岡田の周りを舞い踊った。口の端で、大きな八重歯がきらりと光った。まるで牙みたいだな、とそのとき始めて思った。

 ちょうどその日に、岡田の下宿の大家から電話がかかってきた。部屋の探索に行く前に電話を掛けた時の履歴が残っていたようだ。大家は特にたいした精神的外傷もないと見え、ただ

 「家賃は後で考えるとして、とりあえず部屋の掃除をしてくれ」

 とだけ、伝えてきた。あれだけ取り乱した姿を見せた相手に、まったく恥ずかしそうな素振りを見せない鉄面皮ぶりは、なんだか感心してしまうほどだが、もしかしたら彼の中であれは無かったことになっているのかもしれない。嫌か嫌じゃないかだったら断然嫌だが、このまま何の解決も見せずに、未解決のまま事件を悠久の時の流れに流してしまうなら、最後に心の整理をつけるためにも後片付けくらいやってもいいかなと思って、承諾した。世の中の多くのことは、こうやってなんだか分からないまま過ぎ去っていってしまうのだ。

 次の日は授業が午前中だけだったので、午後になって岡田の部屋に向かう。よく考えたら、私の服が風呂場で水につかりっぱなしだ。それも取りにいかなければ。ジャージに着替えてさあやるぞと思った次の瞬間、植木も呼べばよかった。その言い方があっているかどうかは置いといて、あいつは共犯者みたいなもんだ。それにこの件で唯一利益を得ている人間でもある。あいつに手伝わせるに如くはない。急いで携帯に電話する。あいつのことだから暇だろうと高をくくる。しかしでない。メッセージを吹き込んでおいて。メールもする。何の反応もない。どうしたんだろう。あの子とデートか? でも電話くらい出るだろう。家の番号訊いときゃよかった。

 ジャージに着替え、マスク装着、ゴーグル装着、ゴム手袋ゴム長靴装着、何を勘違いしたのか、息ができない時のためにシュノーケルも持ってきてしまっていて、もっていないので、これも首にぶら下げておく。ドアを開くと、前日に大家にこれだけはそっちでやってくれと頼んでおいた、各種バルサンのチャンポンの煙が襲いかかってくる。目をつむり、呼吸を止めて、全ての窓を開き、換気扇を作動させる。巨大な虫が数匹、床の上で痙攣している。靴のつま先で、隅っこによけておく。しかし、しぶといのはまだそこかしこでカサカサ動いている気配がする。見つけ次第殺虫剤と電気蝿叩きの餌食になってもらうしかない。

 霧が晴れてきて、全貌が見えてきた。意気揚々とはじめてみたものの、もう一度この有様を見せ付けられると、立ち尽くすしかない。自分が汚したわけでもない部屋を、たった一人で掃除することほど。人間の気力を萎えさせることは、世の中にそうはないだろう。それが自分で納得して引き受けた仕事であろうとも。どこからはじめてよいのやら、壁のカビ、洗濯物の山、虫の屍骸、夢の島と化した台所の流し場。結局,本棚の整理から始めることにした。われながら、すばらしい選択だ。

 はたきで、埃を払ったのち、視界が確保されるまでしばらく待ってから、本をいるものといらないものに分別する。いくつかの本は、欲しいのだが、カビなのが他の本に悪影響するといけないので、泣く泣くあきらめなければならなかった。あ、こいつ、フラン・オブライエン結構持ってるじゃん、もらっておこう。これらは除けておこうと思って、収穫物を両脇に抱えて、玄関まで歩いていこうとすると、何かを踏んで、ズッテンコロリンとひっくり返ってしまう。湿気を吸って重くなった本たちが、宙を舞い、頭の上に落ちてくる。

 「ひぃっ、ごめんなさい、ごめんなさい」

 誰にあやまっとるのかね、君は。気を取り直して足元を見ると、そこに転がっていたのはほかでもない、あの時のジャポニカ学習帳であった。またお前か、お互い踏んだり蹴ったりだな、と手にとって開いてみる。一度読んだものなので読むともなくペラペラページをめくっていくと、あの「sexしたい」のページがあり、次の「オレは生まれ変わるんだ」のページがあり、そしてその次のページがあった。そこにも何か書いてあった。

 なんか変だな、と少し思った。

 腰を落ち着けて、そこから読んでみる。生まれ変わると決めたその次の日、岡田は町に出て、片っ端から女の子に声をかけまくったようだ。

 「今日は収穫なし。だが惜しいところまでいったのもあり、手応えあり。明日こそは」

 一週間ほど、それを続けていたようだ。そして、最後に

 「とうとうやった。病気なのか、うまく喋れないみたいだが、すごく可愛い。今日こそは。続きはあとで」

 しかし続きも何もなく、日記は今度こそ本当にここで途絶えている。

 すごく変だな、とかなり思った。

 しばらくその体勢のまま色々考えたのだが、よく分からない。何かがまだ足りないのだ。

 今の状態ではこれ以上色々考えたって、どうにもならんだろうと思って、帳面をおっぽりだし、立ち上がろうとすると、頭の上にガサゴソ何かが引っかかる。振り払ってみると、それは巨大なフケ、ではなく繭を支える糸の束が、剥落し始めているのであった。そうだ、まず箱のご本尊を片付けることから始めればいいんじゃないか。なぜ気が付かなかったのだろう、と近づいて触ってみると、すっかりカサカサに乾いて、これなら簡単に剥がれ落ちそうだし、庭で燃やせばよく燃えるだろう。干からびてしまったそれは、あの日の生物的な不気味さも消え、今では月並みなオブジェの侘しさしか持っていない。少女がまろびでてきた裂け目が、デロリンとだらしなく開いている。そういえばこの中どうなってるんだろうな、と両手で押し開きながら、カネゴンになってしまわないか不安になりながら、頭を中に潜りこませる。目の前に白い骸骨が転がっていた。

 「きゃっ!」

 ビックリして、ぶったまげて、急いで逃げようとしてしばらく手足をジタバタさせていたが、どうにも事態が好転しないので、ようやくまずは頭を引き抜くべきであることに気づく。いったい今のはなんだ? 今度は潜りこむのではなく、裂け目を思いっきり引き裂くように開いて、中の様子を白日の下にさらす。骸骨はどう見ても人間のものだった。その近くには人間の完全な骨格がほとんど乱れのない配置でならんでおり、大きさから言って成人男性、しかもかなりでかいのと思われる。骨の周りには、服のきれっぱしと思われる破片が散乱している。

 しかも骸骨は一つじゃなかった。その骨格の周りにいくつかの小さな骨格が転がっていた。大きさから言って赤ん坊のようだが、その顎には頭の大きさからいって不自然なほど大きな犬歯が突き出ていた。

 5秒ほど、これが意味していることについて考える。

 「まずいな」

 口に出して言ってみた。ある種の自己確認だ。

 「実にまずい」

 今考えたことが大筋で正しければ、今頃もう一つの「掃除しなければいけない部屋」が出来ている可能性が大きいことになる。もう一度、植木の携帯電話に掛けてみる。出ない。

 「まずい、非常にまずい」

 まったく人生は後手後手だ。気づいたら生まれてました、って時点でもう後手だから仕方がないっちゃあ仕方がないんだが。

 仕事が増えたことを思い、深く深くため息をついて、体重を掛けるように眉にもたれかかったら、させていた糸がすさまじい音を立てながら剥がれ落ち、私は糸と骨まみれになりながら、床に崩れ落ちた。その上に埃と塵と胞子と壁紙の破片が優しく舞い落ち、疲れきった戦士を埋葬した。

 

 

 植木家のことを実は一番知っている運転手さんに確認したら、植木は昨日の夜、少女と一緒に裏口から離れに入って、それから一度も出てきていないようだ。少女のほうも、知る限り姿を見せていないとのこと。すると、まだ中にいるということか。岡田の部屋から鍵がなくなっていることから見て、あいつらは、事が終わったら現場から立ち去るはずだ(ここで、あの鍵が見つからないということが、すでに事件の「鍵」だったんだということを苦い気持ちで思い起こす。ただあの時に誰がそれに気づけたろう)。立ち去ってくれれば、こちらとしては活動がしやすい。ただ、今踏み込めば、もしかしたらことを事前に防げるかもしれないのだ。いまだに、中で何が起こっているかについては想像の域を出ない。ここであれこれ悩んでいても仕方がないのだ。肩掛けかばんを背中に乗せるように深く掛けなおすと、運転手さんに礼をして離れに向かう。ここの鍵は本当は植木本人だけが持っていて家族も勝手に入れないのだが、幸い合鍵を持っている。岡田が秘密裏に作ったものだ。まったくいい友達どもである。

 中に入る。しかし一切の生命の気配がない。応接間にも、書庫にも、寝室にも。死んだように静かだ。植木どころか、少女の姿も見えない。となればあそこしかない。寝室の壁のタンスの一つは実はダミーで、留め具をはずせば簡単に動く。そしてその裏には禁断の部屋への扉があるのだ。留め具は外れていた。これは向こうからは留められないのだ。

 扉の向こうは真っ暗である。窓も何もない。手探りで明かりをつけるが明かりといったって、ブラックライトがついて、壁や床が淡い燐光を発するくらいである。壁には蛍光塗料で星図が書いてある。ロマンチックとでも思ったのであろうか。あと、天井にはミラーボールが控えめにきらきら光っている。あれ意味あるのかな、多分思いつきでつけたんだろう。棍棒になるくらい立派な懐中電灯(こんなの懐に入らんぞ)を持って中に踏み込む。立ち並ぶ人形達、ドレス姿の、セーラー服の、ブレザーの、メイド服の、ナース姿の、フライトアテンダント姿の、ウェディングドレス姿の、十二単の、軍服の、ゴスロリ衣装の、ボンテージ衣装の、下着姿の、プラグスーツの、包帯だらけの、手足を切断された、もしくは余分な手足や首を移植された、目を抉り取られた、バラバラにされゴミ袋に入れられた、さまざまな人形達を掻き分け掻き分け進んでいく。ときどき周りを見回してみる。どこかに潜んでいるはずなのだが、分からない。もしかしたら、人形の振りをしているのかもしれない。敵にどれくらいの知恵があるのかもよくわからないが、予想される最悪のことに対処できるようにはしていたい。どの人形も造りが細かく人間そっくりで、ときどき目が合ったように感じてしまう。身構えるが、相手はまったく動かない。その瞬間にも後ろから襲い掛かってくるかもしれない。壁際を進んだほうがいいかもしれないと急ごうとしたら、人形の一つと肩がぶつかってしまう。とっさに手で支えようとするが、数体の人形が固まった姿勢のまま、ドミノ倒しになってしまう。人形の森にできた隙間から、ようやくそれが見えた。部屋の隅の、人形との同衾用のダブルベッドの上に、巨大な繭がぶら下がっていた。用心しいしい近寄って、触ってみるとかなりしっとりしていて、どうやら出来立てほやほやの様子。カバンからアーミーナイフを出して表面を切り裂き、中に懐中電灯を差し入れる。糸でぐるぐる巻きになった植木の姿があった。首筋に真新しい噛み痕があるが、それ以外は健康そうにつやつやしていて、すやすやと寝息を立てている。その周りには、六つの大きな蛙の卵のようなものが付着していて、胎盤のようなぶよぶよの膜を通して、かすかに胎児の姿が見える。これが孵化して、植木の体の肉という肉を食いつくし、そのあとはお互いに食い殺しあい、生き残った一匹だけが成体になるのだ。多分こいつらは単為生殖する化け物だ。どうやって遺伝子を混ぜ合わすのかは、非常に興味深いところだろう。しかし、それにしてもこの植木の幸せそうな顔はどうだ。だまされ、卵を産み付けられ、これから貪り食われようって時に、まったくいい気なもんだ。多分、とてもいい夢を見ているに違いない。今にも「ムニャムニャ、もう食えないよ」とでも言いそうな感じだ。食われるのはおまえだっつうの。たぶん最後の瞬間、喉元に食いつかれ、毒を流し込まれる瞬間まで、おのれの幸せを信じ込み、自分にかぶりついてくる相手を信じ込み、そのまま意識を失ったのだろう。ふと、岡田もこういう顔をして、死んでいったのであろうか、という考えが頭をよぎった。まったく男と言うやつは、なんと馬鹿で単純で哀れな生き物なんだろう。悲しくって、情けなくって、涙が出そうだ。とりあえずこの糸を切ってやろうと、ナイフを構えて身を乗り出そうとした。

 人形がいくつか倒れる音が背後でした。ナイフを構えながら振り返ろうとする。飛び上がりながら、飛びついてこようとする影が見えた。鋭い牙が見える。狙いは首、頚動脈だ。身をすくめながら、両腕で首をガードする。その右腕に深く牙が突き刺さる。振り払おうと、思わず腕を振り回すと、予想以上に軽い獣の体が、歯に服の破片をつけたまま吹き飛んで、人形を数体なぎ倒して止まる。左手に持った懐中電灯を向けるとそれは、痩せさらばえた裸の少女だった。昨日見かけたときのずいぶんプックリして見えた面影はすでになく、最初に見たときよりさらにひどい。肋骨が見事に浮き彫りになり、悟り開く直前の苦行僧のようだ。栄養は全てあの卵や糸になってしまったのだろう。よろよろと立ち上がろうとする様子を見ると、さっきの攻撃は残った力を総動員したものだったのだろう。これなら、何とかできそうだと、ナイフを構えなおして足を前に踏み出そうとした。が、うまくいかなかった。まるで床がなくなってしまったかのように、踏み出した足は支えを得られずに、一瞬体が深淵に落ちていくように感じたが、なぜかさっきなくなったように感じたばかりの床に激突してしまう。頭にも視界にも霞がかかっているようになり、まったく体に力が入らない。ナイフも懐中電灯も取り落としてしまう。両腕で体を支えて上半身を起こそうとするのだが、そのままへたってしまう。体の重さが突然何倍にもなったようで、床にめり込んでしまいそうだ。聴覚だけはやけに研ぎ澄まされて、床に触れた耳から、ペタペタとはだしの足で立ち上がる音が聞こえてくる。

 ああ、やっぱやめときゃよかった。死ぬのか、こんなところで。悪趣味な人形に囲まれて。よくよく考えたらあんまり仲良くないどころか、ただ単に相手が厚かましいから、付き合いを断りきれないってだけの付き合いの相手を助けるために。そもそも良く考えたら、この部屋の掃除はどう考えても私の管轄ではない。ああ、馬鹿みたいだ。

 人間もどきの化け物は、骨が折れたのかよろよろとこちらに歩いてくる。やるなら速くやって欲しい。こういうのに妙に時間がかかると、考えなくてもいいことまで考えてしまって、いらぬ恐怖を感じたり、やらなくてもいい無駄なあがきをして、余計に事態を悪くしたりするのだ。君もプロならさっさとやりたまえ。

 しかし、これ以上に悪い事態なんてあるのだろうか。いろいろひどい目にはあってきたけど、今がサイコーに惨めで落ち目だ。これよりひどいっていうなら見てやろうじゃないかって気もする。それに時間がかかると言うなら、なんでこんなに時間がかかるんだろう。つまり、やつの足が遅いってことじゃなくて、いつまでたっても意識を失わないってこと。植木の顔を見る限り、あいつが意識を失ったのは一瞬だ。何故そうならない。

 今回は五秒も考えている暇はない。行動を起こすのには一瞬で十分だ。もう一度顔の横に手をついて踏ん張ろうとする。まるで界王星で修行をしているような気分だが、植木のさば折よりはいくらかましだ。それに、武道家に同じ技は通用しない!

 「人間の免疫系を甘く見るな〜〜!」

 何とか立ち上がると、相手がこちらを驚愕の目で見ているのが分かる。まだ動いていることによっぽど驚いているのだろう。視界は明らかに狭まっているが、見える部分は妙に良く見える。毒で瞳孔が開いてしまっているからだろう。体を支えるために、繭にもたれかかり、カバンの中から用意しておいた火炎瓶とライターを取り出す。新解さん直伝の特別製だ。

 「これが何か分かるか」

 と相手に良く見えるように振る。どうにも舌がうまく回らない。少女は、今では少女としての擬態を完全にやめてしまい、歯をむき出してうなっている。その血走った目を見ていると、母の愛の偉大さを思い知ってしまいそうになる。隙を見せたら確実に仕留められちゃいそう。

 繭のほうに振り返って、火炎瓶の布栓に火をつける。その小さな炎に、植木と愉快な仲間たちが浮かび上がる。火炎瓶を振り上げる。丁度その瞬間、背後で最後の力を振り絞って、床を蹴る音が聞こえた。こちらも最後の力だ。繭に背中を預けるように倒れこみながらの、乾坤一擲の投擲、コントロールなんか気にしてられない、当たらなかったらハイそこまでの大勝負。目の前が真っ赤になる。血? いや、予想以上に近くにいた相手の体が、火だるまになったのだ。灯油まみれになって燃え上がった肉塊が、わずかに届かず目の前に転がる。断末魔の叫びを上げ、悶え苦しみ、床を転げ周り、人形を引き倒し、動かなくなった。

 勝った? まあ、勝ったといったら勝ったってところか。

 火の粉が周りの人形に移り、髪の毛がぶすぶすと硫黄の臭いを立てはじめる。化学繊維で出来た手作り衣装も溶けはじめる。じきにこの部屋全体が火に包まれるだろう。今すぐ逃げることが出来たら助かるかも。もちろん出来たらの話。背中を後ろにもたせかけて何とか立っている状態じゃ、無理というもの。たぶんこの毒で死ぬことはないだろうから、あとは助けが来てくれることを祈るのみ。ずるずるとすべり落ちて、床にへたり込みながら、これが見納めと植木の顔を見る。別に何も困ったことなんか起こってませんよと言う顔をしている。もう少し元気が残っていたら殴ってやるところだ。

 だんだん火の手が強くなっていくのを見守りながら、じれったいほどゆっくりと気を失っていく。植木のやつ、火災報知器くらいつけておいてるだろうな、とか、ちゃんとドアは全部開いたままになっているはずだよな、とか、全部燃えちゃったら本当に掃除する必要がなくなるな、とか考えながら。

 ところで、きょうこって本当に誰なんだろうとか考えながら。

解説

2008年度名大文芸サークル部誌『泡』vol. 7に出した小説。

題名は今だったら絶対こうはつけない。適当ぶることを格好いいとでも思ってたみたいだ。

内容は嫌いじゃない。

サークル員の女性の一人が「女は怖いですよ。私も知り合いも騙されて、赤ちゃん作らされて結婚させられてしまいました。彼は夢もあったのに、妻と子どもを養うために望まぬ就職をしなくちゃいけなくなって、かわいそうに」

という話から、男が女に卵産みつけられて食われる話を思いついて作った。

この後「女は怖いシリーズ」が続く予定だったが全く続かなかった。いやもしかしたらこれから書くのかもしれないが。

その後、何を間違えたかこの小説を読んで私のファンになった少女が名大文芸サークルに他大学から入部するきっかけになる呪われた作品。

一部のシーンにジョン・スラデック著柳下毅一郎訳『遊星からの昆虫軍X』(早川書房)からの引用があります。

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