淡中 圏の脳髄(永遠に工事中)

このページについてフィードバック(感想・意見・リクエスト)を送る

We are such stuff as dreams are made on

家庭の危機

書庫に戻る

家庭の危機

 忍足信夫は最近は学校にも行かずに部屋でディスプレイの前に座り詰めだ。日がな一日、某巨大掲示板から画像を拾い上げたり、そこに適当な書き込みをしたり、他人の日記を読んだり、他人の喧嘩に半畳を投げ入れたり、かわいい女の子の出てくるゲームをしたり、部屋にたまった昔のアフタヌーンや通販で買った同人誌を読んだり、積み上げられたDVDやLDやVHSやVHDを見たり、深夜のアニメを見たりしていた。食事は部屋のドアの前に置いてあり、中身がなくなっていれば、母親が片付けるのだった。時々、信夫宛に荷物が届くことがあったが、中身を見ようとすると暴れて手が付けられなくなるので、それも部屋の前に置いておくのであった。

 そんなある日、昼ごろ、本当なら学校に行っていないとおかしい時間帯。

 「ちょっと入ってもいい?」

 母親が、ドアの前に立って中に入る許しを得ようとした。ドアにはもちろん中から鍵がかかるようになっている。

 しばらく待っていても返事がない。それどころか中で生きている気配がしない。

 「ねえ」

 どんどんドアを叩くと、中でがさごそと衣擦れにしては大きすぎる音がする。どうやら寝ていたようだ。

 「ねえったら!」

 「なんだ、うるせえな。今ねみいから入ってくんな」

 不機嫌そうな息子の声を聞いて、身を竦める母。

 普段ならここであきらめるところ。しかし今日という今日は決心したのだ。今まで長い間悩んでいたけれど、このままずるずる放置しておいてもお互いのためにならない。今日もし言えなかったら、一生言えないかもしれないのだ。

 「お願いあけてよ。実は大切な話があるの」

 「いいよ、また今度」

 「本当に大事なお話なの! お願いだからあけて!」

 必死の嘆願。

 「ううううう」

 ウシガエルのような声を上げて、肉の塊が動くのが、ドア越しにもわかった。のそのそとこちらに動いてくる。と思うと引き返して何かをまとめて箱の中に入れる音がする。あまり見られるのが好ましいとは一般には考えられてないものを隠しているのだろう。

 がちゃりと鍵が開く音がした。

 「いいよ、入ってよ、ママ」

 中に入ると、何かすえたような臭いがした。ここしばらくは掃除もさせてもらえないから、床には汚れた洗濯物が散らばり、いつからひいてあるのかわからない布団には染みができていた。壁際には雑誌やビデオの類が積み上げられていて、地震が起これば持ち主の命を奪わないわけには行かないように見えた。その真ん中に肉の塊が鎮座していた。

 母親はその肉の塊を見るたびに、生理的な恐怖を感じた。とっくの昔に自分より大きくなってしまっているその肉の塊が、かつてはどんなにかわいらしかったか、だんだん思い出せなくなっていることも恐ろしかった。普段の生活をしていても、この家の暗い片隅にそれが生きていることを、いつも意識せずに入られなかった。どんなに忘れようとしても、物音がしたり、壁ごしにも聞こえるような音でわけのわからない曲をかけたりして、神経をまいらせるのだった。どこかに出かけていても、心配事はなくならなかった。結局帰るのはこの家なのだし、自分がいない間に、その肉の塊が暗い部屋から這い出して、廊下にぬめりの跡をつけているのかと思うとぞっとしてしまうのだった。

 部屋の奥に入るのが怖くて、ドアから入ったばかりの床にちょこんと座る。するとその向かい側の床に息子がどすんと胡坐を組む。大量にかいていた寝汗をぬぐうと、転がっていた2リットルのコカコーラのペットボトルを手にとって、ごくごくやり始める。

 「で、話って何?」

 「それはね」

 話が長くなりそうだと見たのか、信夫はポテトチップスの袋を開けて、割り箸を使ってそれを食べ始めた。

 母親はそれを見て、一つ大きなため息をついたが、くじけそうになる心を奮い立て、意を決すると、顔を上げ口を開いた。

 「落ち着いて聞きなさいよ、信夫」

 「落ち着いてるじゃん、見りゃわかるでしょ」

 「私たちはね、お前の本当の親じゃないんだよ」

 信夫は目を見開いて、母親を見た。それなりにびっくりしているようだった。しかし数秒たつと、最初の驚きの波はすうっと去っていった。

 「へえ、そりゃ驚いた。今まで戸籍謄本を調べて見ようなんて思ったことはなかったもんな」

 話に何の興味も持っていなかった信夫は、これならまだ聞き応えがあるかも知れないと考えて、今はじめて母と視線を合わせた。

 「で、それで何なの?」

 それで終わりなわけはないよな、という暗黙の圧力だ。もちろんこれで終わりなわけはない。

 「それでね、お前の本当の親について、言っておかなくちゃいけないと思って、本当はお前がひとり立ちしてからと考えていたんだけど、このままいったら一生ひとり立ちしないんじゃないかと………」

 最後のほうはほとんど聞き取れないほどの小声になってしまった。

 「何? 何だって?」

 「いや、なんでもないの。そう、あれは私とお父さんが結婚したばかりのことだったわ」

 突然の回想モード。戸惑いながらも話に聞き入る信夫。

 「私たち二人はね、浜名湖花博に行ったの。それはそれは素敵な場所だったわ。花の町や水の園に緑の里。周りは見渡すばかりの花畑。かぐわしい香りが二人を包み込む。お父さんと私は手をつないで、さわやかな風の中をスキップで歩き回ったの。あんまりにも素敵なもんだから、心も体もうきうきしちゃって私はお父さんの手を離して走りだしちゃったの。そしたらお父さんが『待てこら』って言って追いかけてくるもんだから、私は『追いかけっこよ』て言って逃げ出してね、そしたらお父さんたら、本気になって追いかけてくるじゃない。だから私もヒールの高いミュールを脱いで、二人で全力になって走ったの。でも、息が切れてきたころになると、とうとう私はお父さんに捕まえられちゃって、そのままお花のじゅうたんに引きずり込まれてしまった。『ほうら、捕まえた』。二人は息が整うまで、花に包まれて抱き合っていたわ。まるで世界中にも浜名湖花博の会場にも私たち以外誰もいないみたいだった。そしたら、そのときだったの!」

 「え、なに、なにが?」

 すでに睡魔との闘いにコールド負けし、夢の中でフラグを立てるのに夢中になっていた信夫が、母親の口調の変化にびっくりして目を覚ましたが、周囲の状況をまだ理解していないようだった。

 「突然強い風が吹いて、花びらが舞いとびまるで、竜巻のようだった。私たちは驚いて体を起こしたら、さらに驚いてしまったの。見渡すばかりの花畑。さっきまでだってそうだったけど、今度は正真正銘、地平線まで花畑しか見えなかったの。今まで見えていた、水辺の劇場やきらめきタワーはどこにも見えなかったわ。そしたら後ろから声が聞こえたから、振り返るとそこには信じられないほどの、きれいな女の人が立っていて、そうね、今で言ったらグレタ・ガルボをリリアン・ギッシュ乗した感じかしら、その人が真っ白な布に包まれたそれはそれはかわいらしい赤ん坊を抱えていてね、それで言うの。

 『私は花の妖精。この子は私の子ですが。経済的事情により育てられないので、あなたたちの手で、育てていただけないでしょうか』

 私たち二人は唖然としてしまって、しばらくは声も上げられない状態でした。でも何か言わなくちゃと思って、馬鹿なことを言ってしまったの。

 『どうして避妊しなかったのですか』

 『実家がカトリックなのです』

 『はあ……』

 『それではこの子を頼みますよ』

 『えっ、ちょっと待ってください』

 一陣の風とともにその女の人は消えてしまったわ。後に残されたのは、私たち二人と私の腕の中ですやすや眠る赤ん坊だけだったの」

 「ということは」

 「そう、それがお前なの」

 寝ぼけ眼で聞いていたこともあり、信夫はしばらく意味がわからなかった。数秒考えてそうにかこうにか今の話から引き出せそうな情報を引きずり出し、そしてまだ何かありそうかどうかためつすがめつしていたが、もう何も残っていなさそうなので、それを口に出してみた。

 「ということは俺は花の妖精なの?」

 育ての母親は首を縦に振ると、話を続けた。

 「それから一週間後、私たちは命からがらギアナ高地を脱出して、地元の警察に保護された。(袖をまくって二の腕を見せて)これがそのときの傷よ。あれから何回も探検隊が組織されたけどあのお花畑は二度と見つからなかったわ。そして日本に帰った私たちは、お前を自分たちの子供として育てることに決めたの。花の妖精にいいことをしておけば後で恩返しがあるかも知れないと思ったし、お前もかわいい赤ん坊だったしね。でもあれから十何年たって、花の妖精は音沙汰ないし、お前の食費はかさむし、ぶくぶく太るし、学校に行かなくなるし、変なゲームや本を買うようになるし、一日中パソコンしているし、部屋に入ると怒るし、暴れるし、廊下までイカ臭いがしてくるし、もう限界なの。で、もしかしたら、本当のことを言ったら、『お母さん、今まで育ててくれてありがとう。僕は妖精の国に帰ります』って言って帰ってくれるんじゃないかと思って、お前に話すことにしたんだよ」

 そう一息で言い切って目の前の肉槐に目をやると、その肉槐の目から一筋の涙が零れ落ちるのが見えた。

 「お母さん、今まで育ててくれて、ありがとう。でも心配は無用だよ。僕のママは、ママだけだよ。僕は今までと同じように、これからもずっとママの子だよ。ずっとずっと、ママのことが好きだよ!」

 というと信夫は、涙で顔をくしゃくしゃにし、どっちが顔でどっちが後頭部なのか分からなくしながら、母の胸に飛び込み、母を抱きしめた。母もまた、肉にもまれ押しつぶされそうになりながら、両のまなこから大粒の涙を流すのだった。

 「ママ!」

 「信夫!」

 こうして家庭の危機は乗り越えられた。

 そしてその後の人生何の変化もなかった。

解説

飲み会の席で

「ダサいセリフがちゃんと使えてこそ一人前。俺だったら『私は花の妖精』で小説が書ける」

とかよく分からんことを言って、その夜のうちに書いた小説だったと思う。

最後の近くで「肉塊」が「肉槐」になってるのは単なる誤字だけど、「槐の邪神」を思わせていいから、指摘されても直さなかった。

タグ

書庫に戻る