淡中 圏の脳髄(永遠に工事中)

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The road to hell is paved with good intentions

迷路の中で

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迷路の中で

 いつのことだったかはよく覚えていない。とにかくまだ小さいころだった。子どものころ、迷路に迷ってひどく怖かった記憶があるのだ。たぶん家族で旅行したか何かの帰りだったと思う。父親が車を運転していて、そろそろ一休憩入れたいという頃合に、ちょうどよく公園があったのだ。その公園にその迷路はあった。

 季節は確か夏だ。おそらくその迷路は、一年中そこにあったわけではなくて、毎年夏になるとそこに作られる、季節的なアトラクションだったのではないか。あのころだったから余計にそう感じたのかもしれないが、巨大で異様なものに、私の目には映った。全体的な外観は緑色のどこまでも続く壁。一番外側は生垣でできている。大人の背丈よりも少し高めに作ってある、ほぼ正方形の連なる壁の、唯一の切れ目が、アーチになっている入り口だ。小さいころから負けず嫌いで勝気だった私は、自らの能力を家族に示して凱旋するため一人でラビリンスに挑んだのだった。(そんな大げさな、などといわないでくれ。何せ子どものことだ。)

 門をくぐると、すぐに道の左右は緑色から黄色に変わる。まるでたくさんの太陽のような、大輪の向日葵が無数に咲いていた。この記憶が、先ほど季節を特定した論拠なのだが、あのたくさんの向日葵は、眩暈を催させる渦巻きとして、私の脳裏に焼きついているのだ。いくつかの分岐路を、子どもの無邪気さで適当に選んでいくと、行き止まりに行き当たる。「そりゃあ、迷路だもの。これくらいのアクシデントは、なくちゃ困るよ」という風な顔をして、一つ前の分岐点まで戻っていく。ときどきほかの参加者に出会うこともある。単独挑戦者ならともかく、親と一緒にいる子どもに出会うと、私はなんだか優越感を感じたものだ。今思うと相当イヤなガキだったのだな。

 さらに奥にいくと、また風景が変わる。今度は薄い木のパネルのようなものが道と道とを仕切っている。人が両腕を広げたくらいの幅の板をいくつもつないで壁が作ってあるわけだ。壁には一面子どもの絵のようなものが描いてあったように記憶がある。

 そういえば、まだこの迷路ゲームの目的について書いてなかった。まず参加者は、迷路の入り口のところで用紙をもらう。そしてその用紙を持って、迷路の中心部にあるスタンプ所へ辿り着くと、はんこを押してもらえるのだ。そこでさらに最初の入り口に帰ることができれば、見事ゴールインと相成るわけなのである。私は、壁がまた変わったのは、自分がとうとう中心部に近づいた証拠だと考えた。そしてそれは間違ってはいなかった。まもなく私はスタンプ所を見つけ、堂々と帰るためのお墨付きを得たのだった。ここまでくることができたんだもの、帰るなんて簡単に決まっているさ。

 ところが、そう簡単にはいかなかった。一度通った道のはずなのに、まるで勝手がわからない。思わぬところに行き止まり。見覚えのない交差点。いったい何が起こったのか。いったい何がどうなっているのか。混乱したままさまよっていると、さっき通ったばかりの道が初めての道に思えたり、これから新しく試してみる道の壁に描かれた絵が、妙に見覚えがあり、自分は何か致命的な勘違いを犯しているのではないかと思ったりする。子どもの稚拙な絵としか思っていなかった絵が突然牛頭の怪物に思えてきて、今にも壁から飛び出すような気がしたりもした。

 私は不安に侵食されたその幼い頭で考えた。自分は何かの罠にかけられたのではないか。もう二度と外には出られないのではないか。永遠にこの迷路の中に閉じ込められたままなのだろうか。何か仕掛けがあって道が変わってしまったのだろうか。たとえばこの木でできた壁なんか、簡単に取り外しができそうだ。僕がスタンプ所でうかうかとスタンプなんかもらって喜んでいるうちに、僕をだますために道をふさいでしまったのではないだろうか。私が泣かなくても済んだのは、まあひとえにやみくもな自信のおかげだったのではないかと今では思う。

 次第に疑心暗鬼になっていた私を、一時ではあるが安心させたのは、向日葵の道にさしかかったことだ。方向感覚を完膚なきまでに粉砕された私は、自分がどこにいるのかもよくわからなくなっていたのだが、向日葵の道は自分が出口からさして遠くないところにいることの証拠だと思われた。そしてさらに進むと、私の予想通り、そして私の期待通り、緑成す生垣が見えてきたのだった。物音から言っても、その生垣に隔てられた向こう側は迷路の外。おお、天は我に味方せり。私は走った。強い日差しを防ぐために親にかぶらせられた野球帽を手に持って。やっと外に出られる。もうすぐそこに出口があるはずだ。あるはずだったのだが。

 なかった。道は曲がれ右をしたかと思うと、分かれ道一切なしで、渦巻き模様の向日葵の道へ、さらには人を小ばかにしたような絵の描かれた壁の道へと、いやおうなしに私を導いたのだった。(後で考えると、あの絵はなんだか、ホアン・ミロやピカソ、もしくはパウル・クレーに似ているような感じでもう一度見てみたくなる)

 その後どのような道を通ったかはよく覚えていない。とにかく必死になって出口を見つけたのだ。親が心配していると思っていたのだが、意外にそんなこともなかった。私が思ったほど時間がたっていたわけではなかったようだ。親は一応私の勇気のあるのをほめてくれたが、最初思っていたほど英雄らしさは湧いてこなかった。私はその迷路の中で、生まれて始めて挫折感を感じてしまったのだから。私は変ってしまったのだ。私はただ、自分が泣きそうな顔をしているのを、親から、そして自分からも隠そうとするので精一杯だった。その試みが成功したかはわからない。

 私が迷路というものに興味を持ったのには、もしかしたらあの日の出来事が何らかの仕方で関連しているのかもしれない。なるほど迷路について思い浮かべると、必ずあの記憶を引きずっている自分を発見することになる。あの恐怖、あの眩暈について語らなければ、私にとっての迷路を語ったことにはならないのだ。そう、眩暈。眩暈こそ、迷路の本質だと私は言いたいのだ。眩暈とは何か。それは、突然地面が頼りなく感じられる瞬間。自分を支えてくれる地面があると信じていたのに、その地面に身を任せて安心しきっていたのに、突然自分が果てのない虚空に投げ出されているように感じる瞬間。迷路の本質とはそういうものだと思う。何のことはないと思っていた道が、壁が、突然不可解なものに化ける。初めてのはずの道に感じる既視感。さっき通ったはずの道に感じる違和感。自分が今どこにいるのかわからない喪失感。それが催す眩暈。迷路にとって必要不可欠なものはこれだけだといってよい。

 たとえば迷路にとって壁も分かれ道も本質的なものではない。J・L・ボルヘスに『二人の王とふたつの迷宮』という短編がある。その中では、バビロニアの王が作らせた「無数の階段と扉と壁とを持つ青銅の迷宮」により屈辱を受けたアラブの王が、バビロニアの王を「のぼるべき階段もなく、押し開くべき扉もなく、たどるに疲れる回廊もなく、行く手を阻む壁もない」迷宮に迷いこませ復讐を遂げる。砂漠の真中に王をおきざりにしたのだ。砂漠はある意味では壁のない、無限の分かれ道を持つ迷宮といえよう。また、作ろうと思えば一本道の迷宮でさえ作れる。広大な土地に巨大な円形の道を作る。あまりに巨大なため、中にいるものはそれをまっすぐな道と思い込むような、それほど巨大に作るのだ。(実際数学的には直線は円の一種だ。)この迷宮の中に放置されたものは、自分は必ずやどこかにたどり着くものと信じながら、結局どこにもたどり着くことはできない。彼はそのうちに考えるだろう。このどこまでもまっすぐに続く一本道のどこかで、私は道を間違えたのではないだろうか。まさか、どこかに隠し扉があったのではないだろうか。戻ったほうがいいのではないだろうか。この壁にあるこの傷、前にも見なかっただろうか。よく見ると床に、かすかに私の歩いた後が見えないだろうか。私はだまされたのではないだろうか。私は罠にかかってしまったのではないだろうか。これこそ迷路の魔術にはまったものの典型的反応だ。

 実は、迷路の本質は、迷路の側にはないのだ。迷路の本質は、われわれの眼に潜んでいるのだ。不断に見誤る目。われわれがこの世界を生きるに当たって、もっともそれに依存して、しかしまた、それによってよく騙されてしまうもの。同じものを違うと判断し、違うものを同じだと判断してしまうもの。いや、目に限ったことではない。それはわれわれが世界を認識する方法、それ自体の中に存在する問題なのである。物質的な迷路は普段気づかないわれわれの中にあるそれを、気付かせてくれる、そういう装置にすぎない。われわれがこの方法で世界を生きる限り、迷路はわれわれとともにある。

 つい先日のことだ。私はちょっとした用があって、郊外の住宅路を一人歩いていた。今まで気づかなかったところに古本屋を見つけ、時間がそうあるわけでもないのに長居してしまっていた。だから少し早歩きしていたのだが、本格的に間に合いそうはなくなってしまい、さして重要な用事でもないので、ゆっくり歩こうかと思ったところだった。夏の日差しが暑く、せみがジーワジーワ鳴いていた。

 車道の右側を歩いていると、私のそのまた右手は、一戸建ての家の背の高い生垣だ。濃い緑色に生命を謳歌している。車はほとんど通らない。道の左側も同じような生垣だった。私は枝の隙間を通して、家の庭が垣間見えないかと試みたが、向こう側は何も見えなかった。せみの声以外は、やけに静かだ。

 私はふと立ち止まって、周りを見渡した。見覚えがあるような気がした。当たり前だ。ここは前にも通った道だ。いや違う。もっとずっと昔に。

 目の前の交差点を、野球帽をかぶった子供が横切る。私は腕時計をちらと見ると、その交差点を曲がって、少年が走っていったほうへ歩く。五分遅れるのが十分になってもそう差はないだろうと思った。しかし、おそらく私の判断は間違っていたのだろう。私は間違った角を曲がってしまったのだ。その道は、舗装されていず、地面がむき出しになっていた。両側は緑色の生垣に挟まれている。少年の姿はずっと遠くに見える。日差しがきつい。少年の姿が消える。曲がり角を曲がったらしい。私も曲がる。そこは両側に幾輪もの向日葵に囲まれたどこまでもまっすぐな道だった。

 私は何も考えずに少年の後を追った。むしろ、何か考えるのが怖かった。いつの間にか、両脇にあったはずの家の姿がない。どちら側にもどこまでも続く向日葵畑しか見えない。私はできるだけ、まっすぐ前だけを見るようにしていた。向日葵が何かささやいてきそうだった。その渦巻き模様が私を誘っているように思えた。向日葵の花の、あの花びらに見えるものは、実は一つ一つが独立した花なのだ。私はまるで、自分は今、自分が今見ているあの向日葵の花の中を、あの渦巻きに沿って歩いているのだ、というような奇妙な気分におちいった。私は今、私が見ている向日葵に中にいて、もちろんそこでも向日葵を見ていて、そして私はその向日葵の………やめよう、眩暈がする。渦巻きを見つめてはいけない、外に出られなくなる。向日葵の声を聞いてはいけない、向日葵の声を聞くまいとするがゆえに耳をそり落とした画家もいた。

 本当にまっすぐかも、実はわずかに曲がって円もしくは渦巻きを描いているのかもわからない道を、私はどのくらい走ったのであろうか。少年はもうずっと先へ走っていってしまった。そのとき視線の届くぎりぎりのところに壁が見えた。行き止まりだ。その壁はもちろん、あの木でできた薄いパネルのようなものだった。あの少年が、その壁になにやら牛頭の怪物の落書きをしている。私はその場に立ち尽くした。

 すべてを理解した。私はだまされたのだ。私は罠にかかったのだ。私はいまだ、あの日の迷路の中にいるのだ。私がたどり着いたと思った出口は偽物だったのだ。私はあの巨大な迷路の中に人を欺くために作られた偽物の世界にたどり着いたに過ぎない。今でも、この世界さえ包み込んでしまう迷宮の外では、私の本物の両親が待っているのかもしれない。私が道を失ってから長いときが過ぎた。今からどのように正しい道を探し出せるだろうか。もう一度あの迷路に戻って、正しい出口を探しなおすのか。しかし、たとえ何らかの出口を見つけたとしても、そこに私の両親が待っていたとしても、それが本物であることをどのように証明するのか。私はまた、間違った出口から出てしまったのかもしれないではないか。さらには、もしかしたら私がそもそもいたあの世界ですら、迷路の内部だったのかもしれない。迷路の中に世界があり、世界の中に迷路があり、迷路の中に………やめよう、眩暈がする。

 私は、少年に話しかけようとして近づいた。しかし私を見ると彼は、身をかがめて壁の下の隙間を通り抜けてどこかへ逃げてしまった。あの隙間を通るには、私は大きくなりすぎた。

解説

ボルヘスや清水義範のような「エッセイかと思ったら小説だった」という作品が好きで書いた。

これを読んだ古本屋の店主と、知り合いによる「あなたの病的なフアンがいて、会いたがっています。会ってみますか?」という面妖極まりない紹介のされ方で知り合って、今でも付き合っている。

「フアン」とは「ファン」の古風な書き方だが、「自分の病的な不安とは会いたくないなあ」と思ったものだ。

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