淡中 圏の脳髄(永遠に工事中)

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There's more than one way to do it

馬鈴薯

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馬鈴薯

 「子どもができないみたいなの」

 彼女がそう言ったとき、自分でも悲しいことに、それが彼女にとってどれだけ悲しいのか私にはよく分からなかった。

 私は、彼女も含め全ての知り合いに隠していたことだが、繁殖とか増殖とかいうことに対して強迫観念的な怖れを持っている。なにやらコントロールできないものをそこに感じるからである。どうやら人気があるらしいテレビの「大家族特集番組」は私にとっては恐怖映像である。“鏡と父性はいまわしい、宇宙を増殖し、拡散させるからである”。この世に存在する唯一の数は「1」であり、それ以外は単なるその繰り返しにすぎない。

 だから、彼女が子どもを持ちたがっていることに対して私はいつもはっきりした答えを出してこなかった。うまく生きていくために嘘を厭わない私が彼女に対して聞こえのいい嘘を付かなかったのは、ある意味ではそれだけ彼女を愛していたということなのかもしれないが、ここで嘘を付いてもどんどん自分を逃げだせない場所に追い詰めるだけだと分かっていたからだ、と言う方が正解に近いであろう。また、さすがの私も彼女の望みにはっきり否やを突きつけることはできなかった。そんなことをしてもお互い傷つくだけだ。それならばうやむやにして時間の経つのを待つしかない。時間が彼女を変えるかもしれないし、私を変えるかもしれないからだ。私は彼女の繁殖欲と同じくらい、私の繁殖恐怖が非理性的なものであることを理解していた。その点、自分の強迫観念に合理的な理由づけをしようとしてきた人びとよりは私は少しばかりましだったと言えよう。だから時間が経てば、生活条件などを鑑みて彼女が子どもを持つことを諦めてくれるかもしれないし、社会情勢などを鏡みて私が1人くらいなら吐き気を我慢してやるかと考えを改めるかもしれなかった。

 それが私たちの意思をはまったく関係のないところから横槍が入る形になってしまった。

 生理不順に悩む彼女に産婦人科に行くことを勧めてから、彼女の様子がおかしくなった。なにか私に言えない悩みを抱えているようだった。何かを話そうとして、急に話題を変えてしまう。私は最初のうちは彼女が話す気になるまで待とうと思っていたが、顔に吹き出物がやくさんできはじめたあたりでそうも言ってられないようだと気付く。彼女は寝不足になると吹き出物がすぐにできるたちで、そして睡眠不足ってのは鬱の結果でありまた原因でもある。肌のケアにあれだけ金と時間をかけていた彼女が、少し見れば分かるくらい顔にぶつぶつを作って、厚めに塗った化粧でもそれが隠せれていない。そろそろ聞きだしておくべきだよな、と思って個室っぽくて落ち付いて話ができる喫茶店に連れていって、何かリラックスできる話でもしてから本題に入ろうと、この前見たゾンビ映画の話をしながらゾンビ映画以外の話題を一生懸命探していると、彼女が話の流れをぶった切っていきなりそう言ったのだ。

 私は自分でも情けないと思っているのだが、人を慰めるのがすごく苦手だ。黙っているべきなのか話すべきなのかがそもそも分からない。口を開けば場違いで空気を悪くする、毒ガスのような言葉しか出てこない。だからと言って黙っているとどんどん雰囲気が重くなっていく。何とかしなくてはと思ってる私の頭の中は名作『ゾンビ』の後半で暴走族の一人がバイクで走りながら鉈をゾンビの顔に一振りしてめり込ませる名シーンがエンドレスリピート。あれは確かゾンビ役の人の顔の部分にちょうど嵌まるような鉈を作ったんだよな。やはりトム・サヴィーニは偉い。顔も濃いし。あのTシャツ欲しいな。

 「だから、結婚はできない」

 急に現実に引き戻される。

 「別れましょう」

 「えっと、ちょっと待って?」

 そもそも私は子どもも欲しくないし、結婚だって長いこと付き合ってるうちに世間的圧力とかそういうもので、いつの間にかもうすぐそうすることになっていただけで、しないで済むんだったらそっちの方が面倒くさくなくていいくらいなのだが、別れるとなったら話は別だ。それは困る。今の生活は私にとってかなり心地いいし、彼女も大学を卒業後私の話を聞いてくれる数少ない人間であり、よりパーソナルな部分に踏み込んだことまで共有しあっている家族以外の唯一の人間だ。その人間にこんなふうに前触れもなく去られたら、さすがの唐変木の私でもショックが大きい。

 「君のも僕にも僕達にももっと時間が必要だよ。こういう人生に大きく関わる問題にはいくら時間を掛けても掛け過ぎってことはないんだから、もっと落ち着いてからまた話そう……」

 自分の言葉の中身のなさに思わず声が小さくなっていく。目を合わせられないので、コーヒーを見る。これが味噌汁ならベナール対流を眺めて時間が過ぎるのを待つことも出来るのだが。

 彼女が立ちあがる。慌てて追いかける。ああ、やっぱり泣いている。手を掴もうとすると振り払われる。心が折れかけるが、それでも追いかけようとすると、後ろから手を掴まれる。振り払おうとすると、喫茶店の店主だ。かつてはアマレスでオリンピックを目指していたらしいガチムチである。お金を払っているうちに彼女は消えてしまった。

 それからしばらくの間は彼女の部屋に行って、入れてくれと頼むことが日課の一つに加わった。電気は付いていないが、中にいる気配はする。なのに中に入れてくれない。合鍵を持っていてもチェーンは外せない。彼女が仕事から帰ってくるのより先に部屋に辿りついていようと仕事を早めに切り上げて同僚に睨まれたりしたが、結局いつもチェーンに阻まれてガンガンやっているうちに同じ階の住人の目が肌に痛くなりはじめて、返事の帰ってこないメールを入れながら退散することになる。そんなことをしているうちに、彼女が仕事に行っていないことを知った。

 これは本格的にまずいと思い、ホームセンターでバンセン切りを買ってくる。これを使えばドアチェーンを簡単に切れることで一部の業界で有名な道具だ。まずは合鍵で鍵を開ける。そして廊下に誰もいないのを確認して、素早くカバンからバンセン切りを出してチェーンを断ち切る。中にすべり込んで、電気を付ける。奥のベッドルームから気配がする。キッチンから異臭。皿やお椀やインスタント食品の容器が流しに山盛りになっていて、油がこべりつき、真っ黒な水が流れずに溜まっている。こんなことする女じゃないはずなんだが。

 「おい、大丈夫か?」

 今日は病院に入院させることも視野に車で来た。しかし、あれ以来顔を見ることも出来なかったので判断しようがない。とにかく顔を見て声を聞くこと、それが先決だと思い、安心させるように声を掛けながらゆっくり歩いていく。

 「ご飯とか、ちゃんと食べてる? 部屋の片づけとかも、僕がやっていいし……その、僕が精神的にヤバかったときにいろいろ助けてもらったしさ……」

 ベッドの上に彼女が蹲っている。こちらの気配に気づいて顔を上げた拍子に全身を覆っていたシーツが滑り落ちる。暗くて表情が良く見えない。

 「こんなところにいたのか」

 ここにいることは分かっていたけど何となくそういう。

 「電気付けないの?」

 疑問形で言いながらも、答えを待たずに明かりを付けようとする。しかしその待っていなかった答えが来る。

 「付けないで!」

 小さい声だが、私の手を止めさせるだけの何かがこもった声だった。しわがれていてとても彼女の声とは思えなかった。

 「大丈夫? 調子悪いなら、病院行こうか?」

 思わず掛け寄って背中を撫でる。人でなしと言われ、母親に「あんたは人の心が分からないから人を愛することはできない」と言われた私が本気で人を心配し始めている。

 そのとき風が部屋の中に流れ込んできて、外の光を遮っていたカーテンが舞い上がった。思わずそちらに目を向ける。狭いベランダで大切に育てていた家庭菜園のプランターが荒れ放題になっているのが目に入る。それに関して、何か言おうとしたとき、その光に反応したのか自分の内側を見つめるように腕に抱いた膝の間に頭を垂れていた彼女が顔を上げた。

 ギョッとした。

 顔が異様に腫れあがっていた。まるで天龍源一郎にボコボコにされた神取忍のような顔である。表面がでこぼこになっていて、うりざね型の顔の形が見る影もなくなっている。まるでジャガイモだ。肌の肌理も薄暗闇の中ですぐに気がつかざるを得ないほど荒れていて、しみかなにかでまだらになっているように見える。そして最後に会ったときにも気になっていた肌のでき物はさらにひどくなっていて、赤く腫れているだけでなく、膿だろうか、中から何かが出てきている。

 背後の廊下の光と窓の外にある街灯の光だけがわずかに部屋の中に差し込んでくる中、瞼の上の膨れ上がった肉が覆いかぶさってかくれてしまいそうになっている、いつもよりずっと小さく見える目が、奇妙に感情のない光を宿して私を見ていた。

 そしてギョッとしてしまった自分にショックを受ける。どんな顔になっても彼女は彼女だ。こんな生理的な嫌悪感を感じることはよくない。それで平静を装って、いやむしろ適度なショックを受けた様子を装って声を掛ける。

 「どうしたのその顔? 病気なら病院へ行かなくちゃ」

 頬に手を伸ばす。彼女に触れた時、私は戦慄する。肌のザラザラさが人間の物とは思えなかったからだ。どんなに理性が理性的に説得しようとしても、醜い物に対する単純な嫌悪感はなかなか静まらない。

 そしていくら隠そうとも私の表情や声色にそれは出ていたのであろう。

 「行かない」

 力なく言ってまたうなだれてしまう。私は何とか説得しようとする。

 「そんなこと言わないで……」

 「女じゃなくなっちゃったから……」

 下を向いたまま誰に言うともなくつぶやきはじめる。

 「女じゃなくなっちゃったから、こんな顔になっちゃったんだ」

 「なにを言ってんだよ、君は」

 「女である必要がなくなったから……」

 私は腹が立ってきた。子どもが欲しいという彼女の希望は共有はしないまでも一般的な物として理解不可能ではなかった。が、ここまでの妄執となると付き合いきれない。

 「いい加減にしないか。君は女は子ども産むためにあるって言うのか? そういうのは、女であることを貶めることになるよ」

 思わずフェミニスティックなことを口走る私。それに対して彼女はまた顔を上げ、私の目を真っすぐににらみ、

 「じゃあ、抱いてくれるの?」

 と訊く。女のこの、答えにくい質問をここしかないというタイミングで私に訊く機能は、どのような進化によって獲得されたのであろうか。

 「抱いてくれないんでしょ?」

 だから女であるってこととそれとはなんの関係もないじゃないか、と言うのは反論にならない。思い切り関係があるからだ。もしここで正しく反論しようと思えば、それは女であることの一部に過ぎないじゃないか、と言うのが正しいのだろうけど、世の中が上手く出来ていないと感じることの一つは正しい反論と言うのはたいがいあまりに長く、説明が面倒くさく、理解に時間がかかるということだ。だいたいフェミニズムと言うのはいくら正しさで優っていても、この手の女性の直観的な実感を前にしてあまりに無力だ。そして正しさなどより瞬発力が必要とされる場面でこんな長々しいモノローグを垂れ流してしまう私もまた、無力の骨頂と言えよう。

 「出てって」

 彼女はそれだけ言って、また彼女の内部に潜っていこうとする。

 「でも……」

 驚くほど言葉が出てこない。

 「出てって!」

 どうすることも出来ずに、自ら外へ出ていく。交換用に買ってきておいたチェーンを付け直して、外から手と指を必死に伸ばして引っ掛ける。30分くらいかかったが、もしかして切らなくても、こうやってやれば何とかチェーンを外せたかも。そして合鍵で自ら、鍵を掛けて、ドアの外に蹲る。

 どうすればいいんだろうか。このまま帰るわけにはいかないような気がしてならない。でもここにいてもどうすることも出来ないような気もしてならない。救急車を呼ぼうか。でも救急車って嫌がる患者を無理やり搬送することまでやってくれたろうか。自信がない。こんなことをしていると深夜アニメに遅れてしまう。もちろん録画はしているが、リアルタイムでないと実況に参加できない。

 どうするべきかと悩んでいると、携帯電話にメール着信が入る。彼女だ。件名には「今気付いた」とある。一体なんのことだと本文を見ると、

 「子どもできるかも」

 とだけある。一体こいつは何に気付いてしまったんだと真意を測りかねている私の耳に部屋の中から物音が聞こえる。ベッドから起きだようだ。

 中に入ろうとして、自分で苦労して掛けたチェーンに邪魔される。ドアを開けながら中に入ろうとしたのに、ドアが開かなかったから勢いよく頭を打ってもんどり打つ。握っていた携帯電話が手から離れ、廊下をスルスル滑って行く。慌てて拾おうとしたら、また着信。今度は無題だ。

 「簡単なことだけど、普通と違う方法。これなら一人でできる」

 なんの話なんだ。私はドアの隙間から腕を出来る限り差し込んでガチャガチャチェーンを外そうとしたあと、一回目はどうやって入ったかをようやく思い出し、バンセン切りをカバンから取り出してチェーンを切る。なんかものすごく効率の悪いことをしている。靴を脱ぐのも忘れて中に掛け込むと、カーテンが開け放たれていて、外からの明かりに彼女が照らされている。

 「大丈夫か?」

 私は訊く。彼女が振り返る。私は息をのむ。

 彼女の顔から何かが生えている。それは吹き出物だとばかり思っていた物だ。しかしそれは明らかにそんなものではない。彼女の顔から薄いピンク色の細長い物が幾つも幾つも生えて上に向かって伸びていこうとしている。

 私は声にならない悲鳴を上げて、尻もちを付く。それを見て、彼女が手に持っていた携帯電話を落とす。メールを打っていたらしい。私の携帯電話に着信が入る。しかしそれを見ている余裕はない。

 彼女の顔は腫れあがり切って真ん丸になり、人間らしさを完全に失っている。口はおうとつの中に埋もれて見えなくなり、その目はどこを向いているのか分からない、まるで出来の悪い人形のそれのようだ。

 彼女がふらふらと私の方に近づいてこようとした。私は立つことも出来ずに、壁を背にして逃げた。私は恐怖のあまり彼女の顔から目を離すことができなくなり、そしてようやく彼女の顔に生えたそれがなんなのかを理解した。それは芽だ。膨れ上がった彼女の顔はジャガイモそのもので、それに芽が生えているのだ。

 そう理解したときに私は、ベランダへのわずかな段差を転げ落ち、尻を強く打った。ひどく痛かった。尻とコンクリートの床の間に何かが挟まれている。それは西日本では主にシャベルと呼ばれ東日本ではスコップと呼ばれるものだった。とっさに私はそれを両手に持つと、思いっきり彼女の頭に向けて振り回し、振り抜いた。

 腕に確かな感触が残り、彼女は床に倒れた。好きだった長く黒い髪がすべて抜け周囲に散らばり、頭の片隅が衝撃で欠けていた。しかし血は出ていない。頭蓋骨も脳もなく、ただ一様な固い物質で出来ているようだ。それはまさにジャガイモだった。彼女がまた立とうとする。私はなにも考えずただ夢中で、その頭にもう一度手に持ったものを振り下ろした。固い感触はするが、人間を叩いた感じはしない。殺した感じもしない。私は今度は土に突き入れるための刃を立てて、彼女の首に付き立てようとする。狙いを定めようと、刃を首に当てると、ぐにと柔らかい肉の感触がする。首から下は彼女のままだ。全てを白っぽくする街灯の明かりの下、ただでさえ白い彼女の首筋から鎖骨の滑らかなラインが浮かび上がる。私は頭の中がひっくりかえるような感覚を懸命にこらえ、刃先を顎の下の頸動脈辺りに当てて、一度両腕を引き上げる。そして体重を掛け突き刺す。がっと固い感触がして途中で刃が止まる。もう一度引き抜いて突き刺す。もう一度。やはり血は出ない。白く固い欠片がぽろぽろ出てくる。少しずつ深くまで刃が入って行く。私は何回もそれを繰り返した。何回やったか分からなくなって繰り返した。私は気がつくと「離れろ。離れてくれ」と呟いていた。叫んでいたかもしれない。刃に足を掛け、全体重を掛けた最後の一突きで、それは彼女の体から離れてゴロンと転がった。勢いのあまり刃先が床に食い込んだ。私はその巨大なジャガイモにさらに刃を何回も振り下ろした。切った種イモのように細かいブロック状になるまでそれを続けた。最後には大きさのバラバラなそれが山積みになった。指に力が入らなくなり、道具を床にとりおとした私は、息を切らしたまま彼女の体を抱き起こす。胸に耳を付ける。呼吸はしていなかった。当たり前だ。首がこんなふうにふさがっているのだ。そこを手で触ると、私が削り取ったごつごつした断面ができている。何とかして、気道を確保して人工呼吸をしようと断面を撫でまわしながら頭をめぐらそうとする。そこで自分がしていることがどれくらい異常なことかへの理解が突然訪れ、私は彼女の体を突き飛ばす。吐き気が襲いかかってきて、私はトイレに駆け込んだ。そしてそのまま鍵も掛けずにアパートから転げ落ちるように逃げだすと、どうやって帰ったかもよく分からないまま車を運転して、とにかく自分の部屋に帰って、自殺でもするのかというような量の睡眠導入剤を飲み込んで、床に倒れ込んだ。

 次の昼すぎに目覚める。仕事場に侘びの電話を入れると、「最近どうも様子がおかしかった」と逆に心配されてしまう。そして彼女のアパートへ。すでに警察が来ているだろうか、帰る時ドアを閉めたかどうか、などと考えながらいくが、真昼間のアパートは人の気配もなく静かである。何か凄惨なことが起きたとは思えない。

 鍵が締まっていてギョッとする。一体誰が。もう二度と使わないと思っていた合鍵を差し込んでドアを開ける。切られたチェーンが垂れさがっている。

 部屋には誰もいなかった。まるで何事もなかったかのような彼女の部屋だった。もちろん首なし死体なんか転がっていなかった。

 もしかして昨日のことは全部私の夢なのではないかと思いはじめた時、床に出来た大きな傷に気がついた。昨日、彼女の首を切断した場所だ。

 「あら、何か御用ですか?」

 開けっ放しにしていたドアから、アパートの管理人のおばさんが覗く。

 「あ、あの、最近ずっと調子悪かったから、お見舞いに来たらいなくて……」

 しどろもどろになっていいわけしようとする私。

 「あら、今朝は早く起きて、ベランダで何かしてましたよ」

 「なにをですか?」

 予想外に強い私の反応に気圧される管理人さん。

 「え、ええと。多分、ジャガイモか何かを植えてたと思うんですが……たくさん」

 「その後は?」

 「出かけていきましたよ?」

 「何か変わったことはありませんでしたか?」

 首から上がなにもなかったとか? とはさすがに訊けない。

 「特になにも?」

 それは首から上になにもなかった、という意味ですか?

 「分かりました。多分、元気になって仕事に行ったんでしょう」

 私は心にもないことを言い、その場の会話を切りぬけた。

 もちろん彼女は仕事になんか行っていなかった。どこにも行っていなかった。彼女がこの部屋に帰ってくることも二度となかった。私が彼女を見ることもなかった。

 家族から彼女の捜索願が出て、警察の手で探されることになって、当然恋人の私も話を聞かれることになった。彼女が不妊で悩んでいたこと、そのせいで私たちの関係も壊れかけていたこと、それで彼女がかなり精神的におかしくなっていたことについて話した。そして昨日、会おうとしない彼女と話をするためにチェーンを切ったのは自分だということまでは話した。それからのことは当然話さないし、話せない。警察も別に怪しいところはどこにもないと判断し、チェーンを切ったことだけ説教されてそれでおしまいになった。

 彼女の部屋は、彼女の家族が金を出して、しばらくはそのままにすることになった。家族は、まだ帰ってくるかもしれないと信じているのだ。大家としても訳あり物件として売るよりそちらの方がうれしいだろう。家族たちは自分たちもつらいだろうに、私にもやさしく声を掛けてくれた。私が一番彼女の近くにいて、私たちの関係の変化が失踪の原因になったわけだから、残された者の中では私が一番当事者であり、私が一番つらいというのだ。実際何もかもその通りだ。何もかも彼らが想像している物とは違う形でだが。

 私が最初にやったことは、彼女が最後にやったことである、プランターに埋められたジャガイモのかけらを掘り出すことだった。それは確かに私があのとき削り取ったものに見える。なぜそんなものを吐き気を我慢してまで掘り出すのか、自分でもよく分かっていなかった。確かに埋め方が密集しすぎていて、あのままではまともに育つものは少なかったろうが、そんなことと私になんの関係があろう。なんのためにやるのかも分からずに掘り出してしまったそれを、とりあえず定石にのっとって暗い所に保管しておいてのだが、その後どうするかはなにも考えていない。彼女の園芸友だちに配ろうかとも思ったのだが、なにも具体的な行動に出る前に、しばらく放っといて久しぶりに確認してみたら、腐ってドロドロになってしまっていた。

 それを見たとき、私はなぜか溜飲が下がる思いをした。そして、そこでようやく自分が彼女に対して怒りを感じていたことに思い当った。そう、私は怒っていた、生殖への欲望のあまり、自分のコピーをそのまま作るという単性生殖に手を出し、男というものを蔑ろにした彼女に。

 要は、置いてけぼりにされたような気がしていたのだ。それでは私は必要なくなってしまうじゃないか、と。

 今でも私は彼女が最後に出したメールに付いて考えることがある。あの日の次の日、ベランダで粉々になった私の携帯電話をみつけた。どうやら知らない間に踏みつけてしまったらしい。そして彼女の携帯電話は彼女とともに行方不明だ。だから、彼女が最後に出したメールに何と書かれていたのかは、今のところ確かめようがない。なんだか私はそこに

 「だから、あなたはもう必要ない」

 と書かれていたような気がしてならない。

 でもそれでは私もあんなに嫌がっていた彼女との子どもを欲しがっていたことになってしまう。自分でも意味が分からない。だからますますいらいらする。とにかく、「俺の意見は聞かないのかよ」という感覚に似ている。

 だから、腐った種イモの山を見たとき「ざまあみろ」と思ったのだ。「一人で増えようったって、そうはいかないぞ」と。復讐でも果たしたかのような感覚だった。それとも、自分の種でない子どもを殺す父親のような感覚だったのか?

 とりあえずそれで私は彼女を断ち切ることができた。今では段々彼女について考えることも減ってきている。彼女がどこに消えたのかは知らないし、知りたいとも思わない。私の知らないところ、どこか事象の地平面の向こうがわで、好きなだけ増えて蔓延るがいいさ。

解説

ホラーにこそユーモアのセンスが必要なのだと思う。

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