淡中 圏の脳髄(永遠に工事中)

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And now, for something completely different

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 私はその日、完成したばかりの小説を読みなおしていた。その小説とは、賢明なる読者はとっくの昔――賢明でない上に懸命ですらない読者のために具体的に言い直すと、この小説を読み始める前――にすでにお気づきだろうが、この小説である。その小説は、つまりこの小説は、画期的なものであった、つまりある。私は以前から誰かに自分の小説を宣伝してもらえないものかと考えていた。しかし、全く知られていないものを宣伝してくれる酔狂な者など、四方八方から逆風の吹くこの世間にはいようはずもない。それこそ宣伝の役目ではないのか、という一抹の、いやそれどころか十四抹くらいの疑問もあるものの、世の中の仕組みにただ文句をぶつけてみても詮ない。実際問題として宣伝の力学においては、知られているものはもっと知られていき、知られないものは永遠に知られることはない。そこから導かれる解決策は、宣伝によらずにある程度まで知られることである。そのためには、兎にも角にも人目のつくところに出なければ。そこで次に重要になるのが、現代において最も人目につくものはなにか、という問いである。その答えは間違いなく宣伝だ。我々が宣伝を目にしない瞬間などない。また、壮大であったりファンタジックであったり奇妙であったりするがゆえに我々の日常の世界からかけ離れてしまった物語を一切理解できない、多くの想像力に欠けた下々の民草も、宣伝には興味をそそられ内容まで理解しようとするものなのだ。よって私は、自分の小説で何かを宣伝することにした。しかし、またもである、すでに知られているものが宣伝するから皆信頼して耳を傾けるのであり、世に知られていないものに自分を宣伝してもらおうなどと思う酔狂なものも、素のかき氷のように冷たいだけで甘くないこの世間にはいないのだ。頭が痛くなるね。ではどうすればいいのか。誰かに宣伝してもらうしかない。と、見事なda capoだと頭から感心はするが、どこにも出口がないので閉口して開いた口が塞がらない。その口を閉じようと口を糊するそんなある日、私は自分の食べていた親子丼を眺めていて突然身中に電気が走ったような衝撃を感じた。私は思わず入っていた風呂から飛び出し、ヤリイカヤリイカと叫びながら裸で街中を走り回りそうになったが、そもそも自分は風呂になど入っていなかったことに、服を脱いでいる最中に気がついて(風呂に入っているならば服は来ているはずがないということに、あの一瞬で思い至った私はもっと褒められてもいいはずだ)、危うく止めた。ヤリイカ美味しいもんね、仕方ないね。兎にも角にも私はその衝撃は何かを思いついたショックだと思って、自分が何を思いついたのか必死に推理した。

 「親子丼……卵……鶏……卵が先か、鶏が先か……卵と鶏を一緒に食べる……そうか!」

 そうやって私は、自分自身を宣伝する小説というアイディアを自分が思いついていたことを発見したのだ。2日後、結局あの衝撃は奥歯に出来た虫歯によるものだと判明したのは別の話しである。この話は、自分で自分を宣伝することによって、知られているものが知られているものを宣伝する閉鎖的な世の中に一矢報いる話なのだ。こうすれば全く知られていないものが、全く知られていないものを宣伝することが出来る上に、宣伝する側が宣伝される側をしっかり理解していないというありがちな悲劇を未然に防ぐこともできある。それだけではない。この素晴らしいアイディアの素晴らしい点は、この宣伝の効果の確実性である。論理的に考える能力があなたに少しでもあれば、すぐにその必然性に気づくだろうが、この小説を読んだものは、絶対にこの小説を読んでいるのである。嘘だと思うなら、この小説を読んだものに聞いてみればいい。そこから、この小説を読むものは、確実にこの小説を読むことが予想される。これはものすごいことである。宣伝を見たものの果たして何割が実際に、行動を誘発するのか。どんな優秀な宣伝も、その影響は所詮限られた範囲でしかないのだ。また、歴史に残る多くの小説がそうであるように、この小説もまた、何らかの意味で現代社会への風刺の面を持ち合わせているのだ。現代において宣伝の持つ重みを説明したが、さらに恐ろしいことに、宣伝が宣伝しようとするものも、また宣伝であることが往々にしてあるのだ。宣伝を見てもらうために、その宣伝を宣伝してもらい、それを宣伝するためにまた別の宣伝が駆り出される。株を取引する会社の株を取引する会社、などのように、この胡乱でぼろい世の中ではこの手の循環構造は取り立てて珍しくない。そしてこの小説は、その悪循環を蒸留して、分離濃縮純化したもの、とも言えるのだ。また、本来貨幣というものは、食べ物や工業製品のように具体的効果のあるものと交換するためのものであるにも関わらず、マネーゲームしかしない会社ばかりが乱立しては、一体どこで農業や工業などの実質的な生産活動が行われているかが見えなくなるのと同じように、宣伝を宣伝する表現ばかりが流通するようになると、表現の内容もまた、どこに行ってしまったか分からなくなってしまう。するとこの小説もまた、自分を宣伝することがこの小説の内容である以上、全く実質的な内容を持っていないのである。パソコンのフォルダを開いてみれば、自分自身のショートカットだけがおいてあるようなものである。何回クリックしても同じ画面。楽しいなあ。楽しくない?全ての芸術は音楽の状態に憧れる、という言葉があるように、内容というものは表現にとって足かせにもなりうるのだ。もちろん推進剤にも普通になるので、この言葉はかっこいいだけで半分以上嘘か勘違いなのだが、表現から内容を削っていき形式だけにしていこうとするのが、有益な仮想目標の一つであることは、首肯できる点も多い。全く内容のない小説をどこまで書き続けていられるのか。もし、これを読んでいるあなたが物を書く人間ならば、一度チャレンジしてみてもいいのではないだろうか。考えてみれば、我々の現実の人生に、内容などというものが果たしてあるのだろうか。現実を描こうとした内容のある作品こそ、我々の人生から乖離しており、全く現実を模倣しようとせず、現実と無関係にあろうとした無内容の小説こそ、逆説的に現実と似ていはしないだろうか。現実というものは、普通の小説と同じように準備万端で始まって、しっかり全てを解決して終わったりはしない。この小説と同様、よくわからないまま唐突に始まり、よくわからないまま唐突に終わるものなのだ。私はこの小説を読み終えて、そう思ったのだった。お勧めです。ちなみに私はこの小説を読んだおかげで背が伸び就職も決まりました。

解説

思いつきで小説を書いてると前に書いたのと同じような小説ばかり書いてしまって人に指摘されて冷や汗を書くのである。

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