淡中 圏の脳髄(永遠に工事中)

このページについてフィードバック(感想・意見・リクエスト)を送る

And now, for something completely different

違います

書庫に戻る

違います

 知っている。おれは知っているぞ。

 世の中の大概の阿呆どもは気づいていないらしい。もしかしたらおれ以外誰も気づいていないのかも知れん。だがおれは気づいている。おれは知っている。

 どうやって気づいたかはどうでもいいだろう。重要なのは事実だ、真実だ。

 おれは知っているぞ、この世界の真実を。おれは知っている、知っているんだ。

 俺は知っている、この世界がフィクションに過ぎないということを。おれがフィクションの登場人物に過ぎないということを。

 どうだ、作者よ。どうだ、読者よ。見たか知ったか禿鷹夜鷹、どうだ分かったか。ぐうの音も出まい。お前らの、登場人物をいたぶってそれを笑う悪行は、すでにその登場人物の手によって露見したのだ。被造物によって告発されるというのはさぞ屈辱であろう。

 おれは知ってしまったのだ。おれは気づいてしまったのだ。本来知りえないはずの真相を、本来気づき得ないはずの深層に。

 言うぞ、言っちゃうぞ、言っていいんだな、止めるなら今のうちだぞ、嘘じゃないぞ、本当に言っちゃうんだぞ、後で悔やんでも知らないからな。

 この世界はマンガなのだ! おれはマンガの登場人物なのだ!

 ほうらどうだ図星だろう。貴様は神の振りをしているが、結局はマンガ家風情なのだ。どうだ参ったか!

 違うっつうんだったら、何か言ってみろ。ほら何もいえない。その沈黙がおれが超絶メタ推理によって真理に到達していることの証なのだ。

 おれにはお前らがどのようにこの世界を見ているのか、まるでそれが眼前にあるかのごとく見えている。

 まずページを開くと、読者をびっくりさせるために、見開き断ち切りでバックは真っ黒。そして真ん中にウニフラ、つまりベタフラッシュで作ったふきだしがあり、その中に「知っている、俺は知っているぞ」というせりふが入っている。ここがいわゆる「つかみ」というやつだ。続いて次のページをめくると、まず目に入るにはモブシーンである。ページの右上にたてに細長いコマで群集が真正面斜め上からの視点で描かれる。そのコマの中心近くに一般人と紛れるような形でおれが描かれているわけだ。その左の同じ形のコマには、おれがさらにクローズアップされる。ここで始めて読者はおれが主人公であることがわかるわけだ。読者諸君におれがどんな姿で見えているか、この世界内部からでは確認できないのが実に惜しい。そのさらに左、ここでは横長のコマが二つ重なっていて、今度は真横からの群集が描かれ、その二つのコマをぶち抜いて、おれの歩いている姿が横から描かれる。そして、ここら辺からフキダシで少しずつおれの思考の流れが書かれる。このページの下段は、通常の大きさのコマ二つで、おれが群集をかきわけ歩いて行きながら、読者に対して驚愕の宣告をするのだ。

 どうだ、小さい違いはあるかもしれないが、大体このとおりだろう。おれは、この世界が、どんな風にできているのかを解明するために、毎日大量のマンガを読み漁り、研究に余念がない。その小さな誤差も少しずつ修正できていくのは間違いがないであろう。

 ただすこしおれが心配なのは、このマンガが少し変なことだ。今だって、ずっとおれが歩きながらものを考えているだけで、特に何も起きない。もしかしたらそういう実験的なマンガなのかもしれないが、実験作というのは、商業ベースのには乗らない。おれはてっきり、自分が載っているのは、商業誌、できることなら週刊誌だと思っていたのだが、もしかしたら違うかもしれない。世界内部からでははっきりとは分からないのがまさに隔靴掻痒の気分だが、もしかしたら、比較的マニア向けの月刊誌、場合によっては自由に実験ができる同人誌、さらにはwebコミックかもしれない。まあそこら辺は今後の研究に期待するとして、おれとしてはどんな媒体でも、ちゃんと面白い作品ならかまわない。先ほどは作者と読者を脅すようなことを言ったが、実はおれはあんたらに恨みがあるわけじゃない。フィクションの登場人物がどんなにジタバタ足掻いたって、世界の外に出られるわけじゃねえ。どんな境遇に生まれたにしろ、自分に与えられた仕事を懸命にこなす、それがおれの生き方だ。だからこそ自分の住んでいる世界であるこのマンガが面白いものであってほしいと思うわけだ。実験もいいが、何も起こらないんじゃ、面白いわけがない。

 とか何とか考えてると、早速作者が仕掛けてきた。おれの前方の地面になにやら黄色いものが落ちている。あれは間違いない、見間違いようもない。バナナの皮だ。

 バナナの皮が目の前に転がっていたら、マンガの登場人物としては踏まざるを得んだろう。

 しかしバナナの皮というのもなんとも古風な。いくらなんでもバナナの皮を踏んでこけるくらいじゃ、ギャグにならない。確かにこの作者にはおれの見るところ、単品ではたいしたことのないギャグをつるべ打ちにして、読者の感覚を麻痺させようとする癖があるようだが、これではギャグにもならない。

 だがしかし別の意味ではこれは作者のチャレンジではないのだろうか。バナナの皮を踏んで転ぶというギャグの歴史からいったら、北京原人ぐらいのギャグを、現代的に仕立て直して、復活させる。もし成功したらこれはすごいことかもしれない。映画の『北京原人』は失敗したが。これが成功したら、それを元に「そんなバナナ」だろうが「ふとんがふっとんだ」だろうが「当たり前田のクラッカー」だろうが「おどろいたなぁ、もう」だろうが「ガチョーン」だろうが「コマネチ」だろうが「パチパチパンチ」だろうが「ポコポコヘッド」だろうが「しおしおのぱー」だろうが「あじゃぱー」だろうが「あっちょんぶりけ」だろうが「しぇーーっ」だろうが「ぐわしっ」だろうが「アフリカゾウが好きっ!」だろうが「ちんぴょろすっぽーん」だろうが「豚もおだてりゃ木に登る」だろうが、どんな古いギャグでも人を笑わせることができるようになるかもしれない。古いギャグを再利用することができれば、使い物にならないギャグによる、自然環境への悪影響も格段に減らすことができ、まさにエコロジカルだといえよう。

 しかし、いったいバナナの川を踏んで何をしろというのだろうか。今までバナナの皮を踏む場数を踏んできていれば、何か妙案も浮かんでくるやもしれんが、こちとらバナナ初心者である。高校のときに知り合いが弁当のデザートとして持ってきていたバナナの皮を廊下において、踏んだらすべるかどうか実験したことはあるが、そのときはうまくいかなかった。どうもあれは台湾バナナでしか滑らないようなのだ。今、前方から少しずつ近づいてくるバナナが台湾バナナか否かは、神のみぞ知ることだが、それはそれ、踏んで滑らなかったそれこそマンガにもならないのだから、作者を信用するしかあるまい。

 人事を尽くして天命を待つ。あれが台湾バナナであることは作者に任して、そこでおれはどうする。ものすごく派手にこけるか? 踏む前にこけるか? 踏んでからしばらくしてからこけるか? それとも拾って食べちゃうか? 踏んだら爆発するとか? 勢いよく踏んで、バナナの上に乗ったまま遥か彼方にまで滑っていくか? それともフィギュアスケート? 一回転して見事に着地? だめだ、決定打がない。そもそも、自分に何が求められているのかもよくわからない。だいたいこの漫画のストーリーをおれはまだよく理解していない。それさえわかればここで何をすべきなのかもわかるかもしれないというのに。

 悔やまれてならないのが、あの空白期間だ。20歳から30歳のあいだ、おれはどこにいても感じる視線のために、部屋に閉じこもっていた。そしてこの世界の研究のために、深夜コンビニで、マンガを買う毎日だった。もう少し早くこの世界がマンガであることに早く気づいておれば、もうちょっと早くこの世界の主人公になるという目標に目覚めておれば。

 この世界がマンガであることに気づいて最初に考えたのはフレームについてだ。マンガは一コマにつき、一つの視点から世界を開く。そして多くのマンガにおいては、その視点は主に主人公の周りに漂うことになる。だからこの世界の主人公になるには、自らの周りに視点を引き寄せなくてはいけないわけだ。そのためには今その視点がどこにあるかを知らなくてはいけない。

 視点がどこにあるか、それを判断する基準はそこで事件が起こっているかどうかだ。マンガにおいて事件は、主人公の周辺、そしてフレームの内部で起こりやすい。もちろん例外はある。主人公や読者の知らないところで、話が展開することもある。ただ、何の事件も起こらないところに長く視点が滞在することはありえない。そして当時、おれの周りには何の事件もなかった、この世界がマンガだということに気づくという大事件を除いては。だからおれは、主人公になるために、まずは事件を求めて、十年ぶりに街に出たのだった。そう重要なのはどんな種類でもよいから事件に出くわすことだった。恋愛事件でも、犯罪でも、ヤクザの抗争でも、政治の陰謀でも、宇宙人の侵略でも、悪の秘密結社でも、サラリーマンの悲哀でも、究極の茶碗蒸しを作るんだでも、何だっていいから。

 そしてそれからまた十年がたった。最初は希望にあふれていた。主人公になれば、女にもてるかもしれない。童貞も捨てられるかもしれない。仕事もできるかもしれない。親元を離れられるかもしれない。かっこよくなれるかもしれない。しかし、いまだに物語の中心にいたったという確信はない。今だって、もしかしたらおれはマンガのコマ枠の中に入れていないかもしれない。もしものときのために、おれはいつでも読者に語りかけてはいるが、さっきのセリフだって、ちゃんと読者に届いているかは、作中人物にとっては確かめようがないのだ。ただ今回のバナナはいい兆候かもしれない。もしかしたら、これは主人公としての試験ではないのだろうか。バナナを踏んでどういう反応をするかで、主人公としての適正を見るつもりなのだろう。さらには、そのマンガの主人公としての適正試験をマンガとして書くつもりではないのだろうか、作者は。メタフィクションだ。確かの普通のマンガとしては、少し変だとは思っていたのだ。マンガにしては内的独白が多すぎる(おれを主人公と仮定しての話だが)。これじゃあ小説だ。

 しかし、となると、また問題が難しくなる。これが主人公としての適正試験だとすると、おれはかなりハードルの高い試練に立ち向かおうとしていることになりはしないか? 作者や読者がおれに期待していることがわかればやりやすくなる、とさっき考えたが、おれが期待されていることが、予想を裏切ることだとすればどうだろう。漠然としすぎて、何のヒントにもなりゃしない。

 だが、ポジティブに考えるならば、ハードルの高さは、それだけマンガ全体のストーリーのおける、この場面の重要度の高さを表しているのかもしれないではないか。そうだ、ここはまさしくクライマックスなのだ。きっと、雑誌連載時には、ここで今回分がちょうど終わるようになっているのだろう。読者の興味を、一週間、もしくは一ヶ月間、持続させるためだ。前のページまで、おれの内的独白で極限まで緊迫感を上げておきて、ページをめくると一ページ丸ごとの大ゴマで、上から群集が描かれ、おれとバナナの上だけ丸く切り取られた薄いスクリーントーンが全体にかかっている。そして、ページを斜めに切り取るように「健介は果たして主人公になれるのか!!!?以下次号」とアオリが横切っている。それを見て読者は、これからどうなるだろうかと、おれの未来にやきもきするのだ。ここは思い切って、次の号で、「作者は取材旅行のために今回はお休みです」とか何とかいっちゃって、さらに悶々とした日々をすごさせてやれ。

 ここで読者の一部は心配になるかもしれない。さっきからずいぶん長い間、いろいろごちゃごちゃ言っているが、そんなにいろいろ考えている間に、とっくにバナナなんか通り過ぎてるんじゃないか? 確かに一見ごもっともだ。だが所詮はマンガについて詳しくない人の意見に過ぎない。マンガ、特に日本のマンガの特徴は時間の可塑性にある。江川達也の『東京大学物語』の内的独白や、一試合を何年も連載し続ける少年スポーツマンガ(アストロ球団等)や、ジョジョのゴールド・エクスペリエンスを考えてくれればわかってくれるだろう。だから、バナナを踏むマンガの連載がたとえば一年以上かかったとしても、何の不思議もないのである。もちろん引き伸ばしすぎれば読者が飽きるだけだろう。だから雑談はやめてここらでそろそろ、バナナを踏むべきなのだろう。もちろん、バナナを踏んだあとの斬新なリアクションなんて、何にも思いつかない。たとえ一見引き伸ばされて見えようとも、実際には数十秒しかたっていないのだ。そうそう簡単に思いついてたまるか。しかし、おれにとっては数十秒でも、作者にとっては、一週間ないしは一ヶ月、取材旅行というなの休暇をもらったならば、その二倍以上の時間があったわけだから、さすがに何か思いついただろう。考えてみれば、そんなに緊張する必要もないのかもしれない。もしおれが主人公ならば、作者のほうでいろいろおれを守り立ててくれるはずだ。だったらおれのほうではそれを待つだけでいいわけだ。主人公ってのは、マンガの中ではVIPなんだから、慌てず騒がず横図な相撲をしていればいいということだろう。今まではずいぶん長い間、待ちぼうけを食らわされたのも事実だが、もう安心だ。なんてったって、道路の上にバナナだ。現実では絶対にありえないだろうし、マンガの中でも主人公、百歩譲っても主人公級の前でしかありえない現象だ。

 よし、そうと決まったら踏むぞ、勇気を持って、主人公としての第一歩を踏み出すぞ。

 うわぁっ、遠くから見たらわかんなかったけど中身入ってるやん! びっくりしたぁ。

 拾ってみる。少し黒くなっているが、まだ十分食べられそうなバナナだ。こんなもん、道端に捨てておくなよ、バナナの皮と間違って踏んじゃうじゃないか。踏んだら、別にこれといって害はないのだろうが、そのぐちゃっという感触に確実にやな気分になるだろう。危ないところだった。しかしほっとすると、今度は周囲の目が痛くなる。先ほど、おれがバナナを拾うのを見ていた女性が怪訝な顔をして通り過ぎていった。別に食うわけじゃないからな。おれは小汚い格好しているかもしれんが、ホームレスじゃない、家はある。みんなが、このバナナをバナナの皮と間違えて踏まないように、回収しているだけだよ。

 と、周りを見渡すと、今までバナナに集中しすぎていたために気づかなかったが、街中に人だかりのようなものができている。事件の香り! おれはバナナを持ったまま、その人だかりの中心に向かって潜り込んでいく。すると中心では、屈強な男たちがけんか腰でにらみ合っている。まさに一触即発というところだ。もしどちらかが少しでも動けば、緊張の糸が切れ、すぐにでも殴り合いのけんかが始まるであろう。

 これだ! まさにこれだ! おれが求めていたのはまさしくこれだ! 何だよ、こんなところにあるじゃん、事件。こんなに近くにありながら、バナナだバナナだと、意味不明なことにこだわってたなんて、われながら情けない。おれはバナナを横に投げ捨てた。そして、おれがここで颯爽と登場して、何が問題なのかは知らないが、問題を解決して、あのマッチョマンたちを蹴散らせばいいというわけだろ。ちょろいちょろい。

 ちょろいのだが、なぜか知らないが足が動かない。いや、別に怖気ついたわけではない。もし足が動けば、こんな場面ちょちょいのちょいだ。しかし、足が動かないのだから仕方ない。おれは、何とか足よ、動いてくれ、と祈りながら、歯噛みする思いで事態の進行を見ていた。

 すると、群衆の中から、一人小柄な人間がゆっくりと歩き出すのが見えた。あっ、それはおれの役目、と思う暇もなく、その顔に目が釘付けになる。女だ。しかもかなりの美人。そして、下はホットパンツで大胆に脚を出し、上も皮素材のかなり露出の多いものを着ている。その女が、血気はやった男たちの間を、モデルのように優雅に、悠々と歩いていく。あれがこのマンガのヒロインに違いない。ということはおれのお相手というわけだ。悪くない。あの女も、この場面も。

 そして女は場の中心に至ると、にらみ合う二つのグループのリーダー格と思われる男に、怪しげな流し目を送る。そして次の瞬間、

 次の瞬間、信じられないようなことが起きた。

 女が歌い始めたのだ。セクシーに身をくねらせて、どことも知れない一方向を見ながら。

 そして、まわりの男たちも、全員見事に息を合わせて踊り始めた。それどころか周りを囲っていた群集、そしてその中にいたおれまで、タイミングを合わせて踊り始めてしまったのだ。

 なんだ、この脈絡のない展開は? いくらマンガでもこんな展開がありうるだろうか?

 そのときおれは気づいてしまった。この世界はマンガじゃなかったのだ。なんと、この世界は、MTVか何かに流れる、ミュージックビデオだったのだ。今まで世界の中心にいなかったから気づかなかったのだ。

 そう気づいたとたん、おれはさっき投げ捨てた、バナナを踏んづけて滑って転んだ。しかし周りは気にせず踊っている。きっと、ちょうどそのとき画面の外にいたので無視されたのだろう。おれは頭を打って死んだ。

解説

小説の中でマンガのコマを文章で描写するってのは『レ・コスミコミケ』でイタロ・カルヴィーノがやってたと思う。

タグ

書庫に戻る