淡中 圏の脳髄(永遠に工事中)

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Don't panic!

ヘッケル博士!わたくしがそのありがたい証明の

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ヘッケル博士!わたくしがそのありがたい証明の

 落ち着かない気持ちで、病院の廊下の硬いソファに腰かけ、あまりいい思い出のない臭いに鼻腔の奥をくすぐられていると、閉ざされたドアの向こう側から妻の叫び声が聞こえた。それは期待していたものとは違った。心の表面をざわざわとなでる毛羽立った沈黙を破って聞こえてくるはずだったのは、わたしたちの最初の赤ん坊の泣き声だったからだ。わたしは分娩室の戸を拳でどんどん叩いて、なにがどうした入れろ入れろと喚いていた。するとドアが勢いよくこちら側に開いたので、吹き飛ばされ廊下の壁に叩きつけられた。そしてその目の前を、気絶した妻がキャスターつきのベッドに乗せられて、どこかに運ばれて行ったのだった。呆然としてそれを見送っていると、「大丈夫ですか?」という声がして、手がさしのばされた。それは「確かにわたしは次亜塩素酸ナトリウムで歯を磨いていますがそれが何か?」というような白い歯をこれ見よがしに光らせた笑顔が文字通りまぶしい、妻の主治医の手だった。その手をつかんで立ち上がると、手のひらが血でヌルヌルになった。

 「あの、いったい何が……?」

 わたしが言いかけると、それを制するように看護士をひとり呼び寄せた。彼女は何かを白い布に包んで持っていた。そして主治医は笑顔を崩さないままこう言った。

 「これがあなたのお子さんです」

 その白い布に包まれていたのはまるで蜥蜴のようなものだった。いわば臍のある蜥蜴だ。

 

 

 「あたしが悪いのよ! 全部あたしのせいなのよ!」

 妻は見境をなくして泣いている。両手で顔を覆い、ベッドの上で体をくの字に曲げている。まだ体力も回復していないのに、このままでは病気になってしまうだろう。身を乗り出して肩を抱き、乱れた髪の毛を直してやりながら、

 「落ち着いて考えろよ、お前のせいなわけないじゃないか。そんなことより今は体を休めることのほうが……」

 「いいえ、すべて奥さんが悪いのです」

 驚いて振り返ると主治医が立っていた。

 「ど、ど、ど、どういう意味……」

 そう言いかけるのだが、そこにはもう医者の姿はなく、いつの間にかわたしの背後にいて、妻に話しかけている。ぎゃあぎゃあ泣いている妻の耳元に、鼻が接するほど顔を近づけ、

 「奥さん、私があれほど言ったのにタバコを吸いましたね、あれほど私がタバコの胎児に対する悪影響をあれほど詳しく詳細に繰り返し繰り返し繰り返し口をすっぱくしてあれほど教えて差し上げたのにもかかわらずタバコを吸いましたね、言い訳したって駄目ですよ、私は自分の患者の私生活は抜け毛の数まで完璧に把握しているんですからね、しかもお酒を飲んでしまった日もある! なんてこった、さらに食品添加物を気にすることもなく、電磁波を浴び続け、さらに若いときにいかに若気の至りとはいえ怪しい薬に手を出したことが一回だけあり、独身時代には家庭のある男性と道ならぬ関係になったことがあるとなってはこれはもう、何が起こってもおかしくないといいますかなんといったらよいのやら……」

 「おいおいちょっと待てよこら!」

 医者の肩をつかんで引き剥がして、顔をこっちに向けさせる。

 「お前いったい何を……」

 「まあまあまあ、ご主人。落ちついてください」

 「落ちつけったって、お前、この状況でどうやって……」

 「いい薬を紹介しましょうか? まあそんなことより座ってください。奥さんのことなら大丈夫です。奥さんとお子さんのケースは非常にめずらしいケースですから、これからお二人は二十四時間監視体制の下に置かれて、我々の実験動物になってもらいますので、そうそう簡単に殺しはしません」

 「殺すって……」

 「まあそんなことはどうでもいいんです」

 「よくない……」

 「我々はこの不幸な自然界のいたずらのあらゆる原因を検討いたしました。まずは遺伝。もしかしたらお二人の先祖に蜥蜴かもしくは蜥蜴に似た人がいるかもしれないと思って調査しましたが、残念ながら遡れる範囲には引っかかってはきませんでした。また、極秘裏に採取しておいたお二人やご親類のDNAの解析からも、この推理は否定されてしまいました。次に我々が疑ったのは祟りです。『親の因果が子に祟り〜』とも言うあれです。そこでお二人のどちらかが今までに蜥蜴を苛めたり、爆竹なんかを縛り付けて殺したり、例えば我々がするように実験材料に使って、今まで自然界では一度も起こらなかったようなファンタスティックな仕方で殺したりしていないかどうか、お二人やまたお二人のご親類、幼稚園小学校中学校高校大学仕事場等でのお知り合いからの逆行催眠や薬物を使った聞き取り調査を実施しましたところ、特別目に付くものはなく、」

 「ちょちょちょっと待って! いつの間にそんなことを……」

 「安心してください、調査に関する記憶はすべて消してありますから。話を戻します。我々はさらに前世を視野に入れるために霊能力者たちに協力を仰ぎました。その中には、警察と手を組んで凶悪犯罪を見事に解決するものや、テニスボールを表面に傷をつけずに裏返すことのできるもの、さらには床に置いたボウリングの玉を手を使わずに息をふうふう吹いて動かしたり、動いている扇風機を手を使わずに舌を羽に突っ込んで止めることができるものなど、すばらしい能力者たちもいました。その中には確かに祟りの存在をほのめかすようなことを言う者もいましたが、全体的には意見がまちまちで、決定打に欠けるものでした。さらに我々はグランドクロスや惑星直列、フォトンベルトやポールシフト、タキオンにオルゴンエネルギー、イルミナティかフリーメイソンの陰謀、劣化ウラン弾や環境ホルモン、謎の古代遺跡やUFOなどの影響についても調査しましたがどれもこれも『これだ』という感触にかけるものばかりでした。その結果、消去法で奥さんが悪いことになったのです」

 「…………」

 「…………」

 「………終わり?」

 「ええ、とりあえずは終わりです」

 「……で、何がいいたいんだ」

 「つまり、決して、私が極秘裏に母体に注射した、実験中の試薬のせいではないといいたいのです」

 その言葉がしばらくは頭蓋骨の壁に乱反射し、脳内の各所に設置されたスリングショットやキノコバンパーで方向を変えられ加速され、落ち着くべきところに落ちそうになるとフリップに打ち返されたりしていたが、最後にはアウトレーンを通って腑に落ちていった。つまりあまりにも唐突な言葉だったために理解に数秒を要したということだ。

 「そんなことをしたのか、お前!」

 思わず立ち上がり、医者の襟首に掴みかかる。医者はすばやくその手首をつかんで止める。

 「おおっと、危ない危ない」

 そう言って、白衣の襟の裏側に手を入れるとそこから抜き身のメスを取り出して、机の上においた。

 「もしものときのために、ここにメスを隠しているんですよ。もしまともにここをつかんでいたら、あなた今頃指が全部落ちてしまっていたでしょうね。ハハハ、剣呑剣呑。ハイ、これでいいですよ。ご自由にお掴みかかりください」

 しかし、瞬時の怒りは一度機を逸してしまうと萎んでしまい、また目の前にいる男の気味の悪さもあり、何を言おうとしていたのかも思い出せずに口をパクパクしていると、

 「ご主人も、奥さんが大変なこんなときだからこそ、冷静になってくださいよ」

 と言って、妻のほうを片手で指し示した。そこにはベッドの上で丸く縮こまって、子守唄を歌う女がいた。その表情はこわばり、体はわたしが思っているよりずっと小さく見えた。

 「ねっ、彼女のためにもあなたが取り乱しては絶対にいけないのです。分かりましたね」

 「だ、だが今あんたがした話は?」

 「ああ、あれ? まあ、念のためにそういう可能性もあるかもしれないかな、と思ってついでに話しただけで、私だってそんなことあるわけないこと分かりきっているわけですから、調査も申し訳程度にやっただけですけど、その結果分かったこととして、あの薬は失敗作でしたし、それを注射したなんてことはありませんし、そもそもそんな薬は存在しないことが分かったのです」

 「つまり、絶対にやっていないと言い切れるんだな」

 「もちろんです。もし実際に私がやっていたとしても、私はやっていないと言い切る自身がありますよ」

 これでは埒が明かない。話題を変えよう。

 「で、あれはどこにあるんだ」

 あれとは、あれのことだ。

 「ああ、お子さんのことですね」

 まったく無神経なやつだ。それを聞いて妻がまた大きく泣き叫びだした。それはもう人間の声とは言えず、獣の雄たけびのようだった。

 「あんた医者だったら、鎮静剤か何かあるだろ。それを妻に処方してくれたりしないのか?」

 「ああ、それはできませんね?」

 「何故だ?」

 「患者に現実を直視させるのが私の方針なんです。現実というのは、ときに残酷で不条理で意味不明で滅茶苦茶で馬鹿げていて笑えますが、それを直視しないことはいいことではありません。薬を使って感覚を鈍らせ現実から逃避するくらいなら、むしろ薬を使って風が吹いただけで激痛で飛び上がり、自らの筋肉の軋みで気絶し、呼吸の音で発狂するくらいのほうがましなのです。だから奥さんにもその方針で治療を……」

 「したのか? え? 貴様という男は……」

 「まあまあ、そんなことよりお子さんの話をしましょうよ。『個体発生は系統発生を繰り返す』って話を聞いたことがありますか? 今では科学的に否定されている説ですが、そんなことで忘れ去ってしまうには魅力的すぎる説といえましょう。いったいなにが起こったのかは私には知りようもないことですが、お子さんは奥さんの胎内で、まさに系統発生を繰り返してしまったのでしょう。もしこんなことが人工的にやれるとしたら、自分で言うのもなんですが天才と言うほかないでしょう。もちろん予定ではちゃんと人間になって生まれてくるはずでした。しかし運悪く随分月足らずで生まれてきてしまったがために、人間の姿どころか、哺乳類になる前に出てきてしまったのです」

 「でこれからどうなるっていうんだ」

 「大丈夫です、安心してください。私の予定通りにいけば、時間とともに進化の系統樹を順調に登って、人間の姿になるはずです」

 「ほんとだな? ほんとにそうなるんだな?」

 「ええ。もちろんそうならなくても、私がやったわけではないですから、私の責任ではないですが」

 ふうっ、とため息を一つ。ちゃんと育ってくれるのなら、それでいい、親の願いというのはそういうものではないだろうか。子どもがちゃんとした姿になってくれれば妻もショックから立ち直ってくれるだろう。こんなことで、スタートしたばかりの幸せを手放してなるものか。とにかくこの気味の悪い病院から速く立ち去りたい。特にこの気味の悪い医者から。

 顔を上げて医者の顔を見る。話しているときから、まるで張り付いているようにニヤニヤ顔を保っている。

 「なんで、あんたはずっとそうやって笑ってるんだ。人の不幸がそんなに可笑しいのか」

 そういうと、目を見開いて、さも驚いたと言うように両手を挙げてこういった。

 「笑ってるですって、これは私の地顔なんですよ」

 そして手を下げると、口の端は笑わせたまま、目じりと眉の端を、心外だという風に少し下げて、こういった。

 「人の不幸を笑っているなんて失礼なことを言わないでください。ずっと我慢していたんですから」

 「我慢?」

 「そうですよ。それに笑うっていうのはこういうのを言うんですよ」

 というと、医者の顔から笑みが消えて、一瞬表情の真空地帯が現れたと思ったら、椅子から立ち上がると同時に私を指差して、目を限界まで剥き、口を耳まで裂かせて、同じフロアの病室すべてに響き渡るような声で

 「子どもがあ〜んな醜い姿で生まれてきてざ〜んね〜んだったにゃ〜〜、はーはっはっはっはっは、ざまーみさらせ! 蜥蜴の化け物と気違い女房抱えてお前これからどうやって生きていくんだろうねえ、はーはっはっはっはっは、他人の不幸は蜜のあじ〜、ぼくのなまえはプーさ〜ん!」

 「きさまぁ、ぶっ殺してやる!」

 「わあ、助けて! おい、警備員、早く来てこの気違いに鎮静剤を注射しろ!」

 

 

 それからの毎日は、決して平穏な日々とはいえなかった。妻と息子(オスだった)はほとんど研究所から出るのを許されず、様々な実験のモルモットになり続けた。私自身の行動も制限され続けた。しかし、わたしは耐え続けた。乗り越え続けた。いったい何がわたしを支え続けたのだろうか。それは多分愛だったのだろう。妻と付き合いはじめたあの頃、結婚を申し込んで受け入れられたあの日、そして幸せな新婚時代、すべてが薔薇色に輝いていた、そして二人に子どもができたことが分かった日、天にも昇る気持ちだった、そして待つ喜びを満喫していたあの日々。あの頃の幸せがわたしたちから去ってしまったとは考えられなかった。明日になれば、明日になれば今日よりも幸せになっているはずだ。そう信じて生きつづけた。笑うことを忘れたかに見えた妻は、時間とともに笑顔を取り戻し始めた。それどころか、笑顔を絶やさなくなった。立っているときも座っているときも寝ているときもわたしが風呂に入れてやって体を洗ってやっているときも私が食べ物をスプーンで口に運んでやっているときも下の世話をしてやっているときも。最初のうちは、一時的に自分が誰なのか思い出して泣き叫び始めるときもあったが、そのうちそういうこともなくなった。

 息子は順調に育った。そして順調に進化の系統樹を登って、毛も生えそろい、翼を広げて大空に飛び去っていってしまった。

解説

2008年6月の名大祭で配った名大文芸サークルの部誌『泡 vol.7』に収録した作品。

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